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弁慶松

那須晴次『伝説の熊野』

田辺

弁慶松

 我がふるさと田辺の町は木の国でも古い伝説をもっている町です。かの源平赤白の鶏を闘わせたという闘鶏神社弁慶の生れたと伝えられているうぶゆの井、弁慶松など枚挙に暇がない程であり ます。ここに最も歴史的なかの武蔵坊弁慶について述べよう。そもそも弁慶の生地は古より 紀州熊野という説と出雲の国等という説とがあります。弁慶は熊野別当湛曹の子であるといいます。湛曹の屋敷は今の上片町清水邸であったのだと伝えられています。弁慶はこの屋敷で生れたので、大きなかの弁慶松はその邸跡にあります。その最初の松は天正十六年に上野山の城主杉若越後守が芳養泊城を西之谷八王子砦に移す時、日高郡小松原村九品寺を移して城の広間となしこの弁慶松を伐って台所の虹梁とした。周囲五抱あったといいます。安藤家領主となるに及んでこれを植えついだのが正徳四年八月の暴風雨の時に吹き倒された。後また植えついだのが現存の松で□々鬱然として町を蓋うもの実に旧藩主の賜であります。

 この松及び祇園社その辺が皆所謂湛曹の屋敷の跡で其の記録は闘鶏神社前の安部氏方にありま す。安部氏は湛曹の子孫だそうでこの家には、弁慶うぶ湯の釜及湛曹の烏帽子形の兜も伝わって居ります。

 弁慶長して叡山の西塔に居った故に西塔武蔵坊弁慶と称せられる様になったのであります。他年義経の家来となり義経と共に奥州に下り七つ道具を両肩に背負い立往生して戦死したといいます。

 弁慶産湯井 は大字上片町の田辺第一小学校の構內に有って弁慶産湯の井と伝えて居ります。

 弁慶の力餅 伝うる所によれば関東より熊野に参詣する者は必ずこの田辺の城下に宿し弁慶松、産湯の釜等を見、その夜はこの宿で餅を搗く事を例として居た。これを称して弁慶の力餅といいます。

 弁慶腰掛石 は町内字屋敷町八阪神社境内にあって弁慶が腰を掛けたので大きな凹になったのだと伝えられています。

 和漢三才図会に曰く

弁慶大織冠十一代関白道隆公氏族、熊野住侶弁正一男也。幼時在雲播□長学法於叡山、而好兵学以為悪僧。先是義経住奥州與秀衡□亡平氏事、為窺六波羅 形勢。治承元年復登洛。弁慶□義経有與□志進為従者。其智勇人以称之。
又曰鶏闘権現在牟婁田辺(中略)
時別当名湛曹武蔵坊弁慶之父也。湛曹那智別当教真之五男、母六条判官為義之女也。則與義経親属故、弁慶出仕義経軍勢大而空死、惜哉。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

闘鶏神社:熊野の観光名所
弁慶物語:熊野の説話

弁慶松:紀伊続風土記(現代語訳)

湛増

2019.7.16 UP



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