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落武者の最後

那須晴次『伝説の熊野』

田辺

 暗黒なるか、どんよりした色の海。怒り狂った海は白波を持ち上げて扇ヶ浜にとひた押しに押し寄せて来る。扇ヶ浜の波打ち際、十町の間は真白な泡沫が砂を噛んで咆哮している。

 まだ三時と云うのに太陽は雲の後でその周囲の空をぼんやり照らしているくらいで四面はもう淡暗い。風はもう止んだが波はいよいよ高くなるばかりである。

 その波間——白い波頭の間を必死に岸に近づいて来る一艘の和船がある。東風にあふられて沖へ沖へ流されようとする舟を力いっぱいで岸に近づけている。揺り上げられ揺り下げられする舟の中には冑を着た二人の武士、一人は甲を取って大童となり倒れそうな足もとを踏みしめながら櫓を漕いでいる。他の一人は舟の舷に手を掛けて振り落されまいと、しがみ付いている。二人とも武士とは云うものの、顔色の青白い、すらりと丈の伸びた関西武士、西国に逃げんとして逃れ得なかった平家の落武者、源氏の兵に追われ追われて遂に熊野まで来たのである。

 ほんの二三十分程前には田辺に上陸しようかしまいか迷っていたのであった。

 田辺は熊野別当弁慶の出生した所で、今では源氏に組しているのである。しかし田辺へ上陸できないからと云って一里だって前の方へは漕げないし、それかと云って今朝源氏方に追われた南部の方に帰るわけにもいかぬ。ままよ今この舟と共に沈んでしまった方が良いのではあるまいか? しかし平家は未だ滅亡していない。風前の燈火とは云うものの、まだ落ち伸び得る見込みは無いでもない。吾等も敗れたりとは云え平家の武士である。平家の未だ滅亡せざる間はそも無やみに死ぬ事もできぬ。田辺に上陸したならば、どうせ見付かるにはきまって居る。見付かった時は見付かった時で何とかなるであらう。一人でも二人でも源氏兵を斬ってから死んでも遅くはない。

 こう決心をした平家の落武者は転覆しそうな舟をようやく扇ヶ浜に乗り付け、素早く松林に姿をかく した。淡暗闇の中に空腹と疲労を抱いた二人は新庄方面へ落ちのびるつもりで刀をたよりに食物をあさりながら重い足を引きずり引きずり木影に姿を消した。

 田辺のはずれ権現山の麓の一軒家、もうここを通りさえすれば大丈夫、新庄も眼の前だ。明朝までには田辺からずっと離れるであろう。

 こう思うと急に疲労を感じてきて腹が減る。一軒家からの酒、さかなの臭いがどうしても鼻を去らぬ。何か食いたいなあとしばらく佇む折、がらがらと開く一軒家の障子。ふと見上げた落武者の顔、それは見るまに真っ青になって、唇はぶるぶる震えている。

「ヤッあやしき者!」と一軒家から出て来た源氏方の武士。世は源の戦の最中、源氏は平氏を怨み、平氏は源氏を憎む。

「平氏の落武者」 源氏武士は直感した。

「やいッ! 待て! 逃げるとあらば承知致さぬぞ」 源氏武士は早や刀の束に手を掛けている。

「失敗った」 見付かったと思うや二人の落武者は死者狂いで今来た闇に逃げ出した。

「逃がすな」「待て」口々に何か罵りながら熊野武士は追かけて行く。道は曲りに曲った長い細道でこの道のつきる所は扇ヶ浜である。その上その両側は深い竹薮と、いばらの繁みである。うまくこの中に逃げ込めば、中々さがし出す事ができぬ。

 空腹のために走っては打ち倒れ、打ち倒れては走り、一気に八九町も走ったがもう一歩も歩けぬ。これまでだと松の根方に打ち倒れて動かない。両側の薮やいばらの中を一つ一つ調べながらも様子知っ たる源氏武士幾時もたたぬ中に早くもどやどやと押し迫って来た。

 もう誰が来ても逃げる力がない。ただ寄らば斬らんと身構えたものの、それもほんの型だけに過ぎない。それと知った源氏兵の一人つかつかと寄って

「起きろ!」と一人の頭を蹴った。

「武士の頭を土足にかけるとは無礼者! 落武者とて侮るなッ! この怨は死しても忘れぬぞ!」

 最後の一太刀、怨の一念——力をこめたる片手斬り前に進んだ一人の脇腹に深く——真赤な返り血を洗びた二人の落武者今はこれまでと顔見合わせて自刃した。

 その後いつからともなく「平家の落武者が自殺したあの松の所に幽霊が出る。真っ青な顔をして口からたらたらと血を吐きながら源氏を呪っている」と云ふ話が評判になった。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2023.7.4 UP



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