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弓の名人和佐大八

那須晴次『伝説の熊野』

田辺

 和佐大八の墓は田辺町江川浄恩寺に在り。高さ約二尺の石塔にて「到蓮院安誉休心居士」とあり、裏面には「和佐大八範遠」と刻しあり。

 大八は海草郡和佐村の人、幼より射を能す。十二歳の頃、紀伊侯の臣葛西園右衛門の弟子となる。園右衛門は京都三十三間堂にて一万本中、通り矢七千八百五十九本を中て日本一の名誉を得たる剛の者なり。その頃尾州侯の臣に星野勘右衛門あり。斯くと聞き君命を奉じて三十三間堂に行き一万本中八千四百四十五本を中て更に日本一の名誉を得たり。(この通し矢は慶長十一年浅間平兵衛五十一矢を射中しに始まる。その後三十三間堂は弓取る武士の日本的名誉の道場となれり。競技時間は前日の夕刻に始まり翌日の夕刻に終る。而して通り矢の多き者を以て日本一と定む)

 星野が日本一の名誉を得し時葛西は病気なりき。時に大八年漸く十八、而も躯幹長大膂力人に超え、殊に剛弓が得意なり。師の為、且は我が身の為、星野を凌いで武士の名を輝かさんと乞う事再三、許されず。遂に事若し成らずんば切腹して謝罪せんと誓う。この直訴功を奏し藩主の許を得、大八は京都に出でたり。これ実に貞享三年三月二十四日なり。この日大八は決死の覚悟を以て晴の舞台に現わる。星野が八千余本を射てより僅かに十四日目なり。満都の士女はこの年若き勇士に向いて驚きと危ぶみと疑の目を以て迎えたり。紀藩よりは松平甚五郎以下の審判官がずらりとその席に着く。

 大八は襷十字にあやどり後鉢巻凛々しく得意の剛弓を引き絞り引いては放ち、放ちては引く。実に一世の壮観なりき。現今浄恩寺に大八の弓あり。長さ七尺五寸、太さ三寸五分の竹の弓。宛然天秤棒の如く両手にてグッと引くも撓まず、これあるいは京都にて用いし品ならんか。然るに五千本中射通せしもの僅かに三千九百余本。さしもの大八心痛の余り覚えずその場に卒倒したり。時に観覧者中より深編笠の武士つと走り寄り「比類なき若者ぞ」と激賞しつつつ小刀を取りて大八の双腕を刺し悪血を除き布を以て縛し「さあこれで大丈夫だ確りやられよ」と力を付く。不思議なる哉大八その後心き爽然百発百中一万本中遂に八千八百七十八本を射通し、ここに目出度日本一の名誉を博したり。この深編笠の武士の誰なりしか、当時の何人とも知れざりしが後に至り星野勘右衛門なりと判明す。古武士の襟度実に敬す可きものあり。

 大八は功により藩主光貞公より三百石を賜わる。その後大八は婦人の為に失敗し田辺に流罪となり 後悔煩悶の極ある夜守衛の隙に乗じ高山寺山下の深淵に身を投じて死す。故にこの淵を「和佐淵」と云うとあり。更に湯川退軒翁の「田辺旧事記」を見るに、寛永六年三月十七日囚人和佐大八来る。更に正徳三年三月二十四日大八腫膓を患いて死す、紀藩監察齋塚甚平衛門これが為二十七日を以て来る」とあり。則ち田辺にては足懸五ヶ年住したりしなり。貞享三年三月二十四日十八歳にして弓の名誉を得、正徳三年三月二十四日四十五歳を以て死す。年号こそ変れ、同じく三年三月二十四日と云うもまた不思議というべし。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2019.7.17 UP



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