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秀衡の継桜

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

秀衡桜

熊野街道の近野村大字野中に「秀衡の継桜」がある。元禄になった紀南郷導記にいう。

在所はずれに王子の小社あり。この社の前に名木の桜接てあり。古木は枯れてなかりしを前君の厳命に因って代りに山桜を植たり。今大木となれり。接桜は昔秀衡夫婦参山の時剣の山の窟にして出産せしその子をそこに捨置参山す、此処に至って仮初に桜を手折って戯れに曰く、「産所の子死すべくばこの桜も枯るべし、神明仏陀の庇護ありてもし命あらば桜も枯まじ」と云って側の異木にさして行過す、下向道に成って此処にもうで来りしに色香盛の如し、即ちかの窟に行て見るに幼子は狼狐のためにも侵されず還って服仕せられて肥太れり、夫婦喜びて奥州に具して下しと言伝えたり

とある。秀衡の継桜という由来はこれで明かだ。前君というは紀伊藩祖頼宣卿のことで、公は元和に紀州就封後、領内の名所旧蹟を保護顕彰されたが、継桜も元の木は枯れてなかったのを新たに植え継いた何代目かのものらしい。

継桜王子

継桜と同じような話のある例を求めると、手近かな紀州だけでも那賀郡田中村字新田の阿字堂の側の小竹の叢生は、弘法大師が杖を植てて吾法興隆せば竹茂生せよといいしに、その杖の竹が茂生したものだと伝え、伊都郡高野町の杖薮には大師が杖の先で掘った加持水の井戸あり、その杖を投げたのが生えて薮となったのが村の名の起りだという。同じく皮張にある杖は丹生狩場明神が杖をさし給うたのが生いたという。又、海草郡梶取総持寺の杖桜は宝徳二年明秀光雲上人開基の時、枝にして来た桜の木を地に立て吾もしこの地に縁あらば杖葉を生ぜよというと数日にして萌芽を生じたものだという。それから熊野の雲取越にあった高麗桜は附近の請川の住人が朝鮮征伐の時、かの国から持ち帰った杖をさしたのだという。僅かな紀州だけにでも、こんなに同じ話が沢山あるとすると、継桜の伝説を不思議なとこだと感心するだけでは気が済まなくなるであらう。

以上の例でも知れる如く、こんな類話は各地に多い。柳田国男氏の「杖の生長した話」(大正十四年十一月、民族一巻一号)から拝借すれば、まず明石の人丸社前の盲杖桜、これは筑紫から参詣した一人の座頭が「ほのほのと誠あかしの神ならば我にも見せよ人丸の塚」と詠んだところ、忽ち両眼明かとなったので、今は杖も用なしと広庭にさしたまま去った、その杖が芽を出し花咲いたのがこの桜だという。美濃稲葉郡市橋村立政寺の杖桜は、開山の智通上人が有縁の地を求めこころみに杖をさし立たのが枝葉出てたのだといい、同国郡上郡上保村専龍寺の泰澄桜は、泰澄大師の杖であったという。三河額田郡樫山の桜井寺の弘法大師の杖桜は大師が杖でついて清水を湧かせ、その杖をさしたのが生ひ茂ったといい、同宝飯郡大木村の西漸寺の逆さ桜は法然上人が桜を逆にさしたのが芽を出したのだという。作州久米郡の本山寺にも法然の杖桜がある。下野には義経の杖だったという逆さ桜あり、薩摩には関白信輔の杖だったという近衛桜あり。その他まだ幾らあるか知れない。それから桜の木以外では第一に親競上人七不思議の一つに越後の逆さ竹あり、上野世良田の長楽寺には弘法大師の杖が葉を生じたという竹あり、(一説には天海僧正ともいう。) 越前大野郡下味見村の称名寺には開基光実上人の杖が芽を吹いたという竹叢あり、甲斐の金桜神社には日蓮上人の杖から生れたという竹叢がある。それから安芸宮島の錫杖梅、越後常安寺の一夜梅、美濃乙津寺の大師の杖の梅、比叡山の椿堂、伊勢の逆さ椿など天神さまをはじめ弘法、伝教、範頼など、神や人は替るが等しく杖から生えたとしている。それから杉、檜、羅漢柏、公孫樹、榎、柳、七葉樹、槐、クロガネモチ、藤、椋など関する同じ型の話は沢山あるが、詳しくは柳田氏の本文を見ていただくことにしたい。

杖が古来の信仰に重要な役目であったことや、杖が生長した木の話がコンなに多いのは、何故かということは六ケしくなるし、面白くなさそうだから省略するが、ただ「秀衡の継桜」もそれらの類話の一例に過ぎす。実は秀衡ではなくて往古の信仰と関係するか、境界標示のものと交渉あるものかとも思われるとだけ申してケリとする。

(昭和七年二月、紀南の温泉)

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.2.22 UP


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