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小栗判官のこと

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

小栗判官の車塚

紀州熊野の湯の峯温泉場小栗判官車塚というあり、同じく判官の力石というあり、蒔かず田というもある。伝えいう、車塚は小栗判官は病疾にかかり小車に乗ってこの湯の峯へ湯治に来たが病癒えて帰る時最早用なしとて小車を棄てたところ。力石は判官は病やや癒えた折おのが力をためしたものといい、径五寸ばかりの塊石二つあり。蒔かず稲の田は判官が髪を結うた藁を棄てたのが根をおろし、それより年々蒔かずして稲生え実のるという。今はその田は一坪ばかりに狭められ雑草繁茂しているが、なお年々稲が三五茎生えている。

紀南郷導記に、「小栗が車道と云うは左右並木の松あり、少ずつ上り下りの道なり、中程に車塚あり、側に不蒔稲の田地あり、種まかずして毎年稲生と云う、これはむかし小栗入湯の時髪を結し薬を棄てしに不思稲生ず、取って薬師供物にせしとなり」とある。郷導記は元禄に記述された書だ、当時既にこの伝説あったことは窺い知られる。嘉永に成った紀伊風土記に車塚のことを「当村(湯の峰のこと)より本宮への往還にあり俗説に小栗判官この湯に浴し跛蹇平癒し車を此処に棄て帰るという。又熊野往還の古道今の街道と少し宛替れる所を小栗街道といい習えり、院本に小栗判官兼氏という有、毒酒に中られ熊野湯の峯に浴して平癒せし事を作りて車街道という事のあるより終に車塚又は小栗街道等の名起りしならん」とて鎌倉大草紙の小栗満重のことの大概を摘出し「その事実元より本国にあずからず」とハッキリ否定している。車塚に後世に設けた墓石形の塚石?は今は小栗街道から移して自動車道の峠に建てそこを車塚と称し名所案内の便にしているので、元の車塚のところは古老が知るのみである。この元の車塚、その名から推すと或は古墳でないかという者もあるが、そうでも無かりそうだ。

小栗のことは野史の所載が最も簡明だ、曰く助重、字小二郎、與父據城、一色詮秀欺謀請和将屠城、結城持朝與助重有舊、密告有隱謀免之、及城陷而父命竊與池野助長後藤助高等遁去」。応永三十二年與従者潜鎌倉欲擊詮秀、寓居権現堂歇家、有橫山安秀者與歇家主人竊議、欲殺助重而奪財招聚群盜、張燕召妓薦酒助重将鳩、席上有妓名照女 通私於助重、聞知鳩毒、弾弦謳歌譬諭致意、助重察而不飲、従者盡飲醉殪、助重如厠避入樹林、有繫馬、初安秀奪赤電騮於街道、騮好食人、賊皆怖而繫之林叢、助重窃携資騎騮揚鞭遁走入藤沢道場、住持憐愛、令人護送助重干参州而為中毒死者、建墓碣弔焉。」助重沈淪艱苦、欲擊一色詮秀復仇怨、永享六年逐具状愬干幕府五月詮秀所誅鎌倉、助重受命、九月至大住府執橫山安秀誅焉、後落髮号宗丹、好嗜画、每近侍幕府。子助正初字大六、称常陸介、賜丹峯山。

但し慣重を持する野史の著者はこの記の終りへ「実記今考本書非無所疑、未有訂正、姑竢後考」 と註記している、妓照女は俗にいう照手の姫らしい。

鎌倉大草紙は助重のことを満重として記載し満重、賊の悍馬に乗り遁るる途中毒発して仆れたのを藤沢の上人扶けて熊野本宮の湯の峰に湯治せしむ。照手は横山等に満重を逃がしたを責められ遁れて武州金沢に至り漁夫に助けられたが漁夫の妻の嫉妬のために殺されんとし、濃州青墓の里に再び妓となり、後ち満重に購われ夫人となったと芝居がかりに書いている。この照手、藤沢山に入りて尼となり長照と号すともいう。太田南畝の改元記行に「藤沢の宿にいたり橋を渡り道場坂を上りて小栗堂にいたる、照手姫尼の像あり左右に掛物をかけたり、左は十人殿原の像左は小栗の事かける絵なるべし、いづれも古雅にしてあらたなるものとは見えず」と言いながら「小栗満重のこと、あまねく人のしる所にして正しき説をみる事なし」と形付けている。以上だけから考えると続風土記がハッキリ形付けているのが尤もと思われる。和歌山県誌もこの続風土記の考説を踏襲して「当国に小栗に関する旧蹟の如きは固より譚に依りて作りたる源氏名所の類のみ」と一蹴している。

しかし仮りにそれを肯定するとしても元禄に既にその伝説あり遺蹟あったは、鎌倉大草紙らによったのであろうか否か。殊に湯の峰温泉は往時は本宮の領内にあり、本宮は官幣大社熊野坐神社——熊野三社の一たるお熊野さまの鎮座する所、往昔は天皇 上皇 女院の行幸啓を拝することも屢ばであり、貴顕公卿国主大名をはじめ道俗名流の参拝基だ多かった中に、敗残の助重、流落の判官、失意のドン底に病疾に呻吟した人のことのみが、ナゼかくは話に残り造蹟が出来たか。——藤沢遊行寺と熊野社、即ち時宗の祖一遍上人は熊野に参籠して名号を授かりし因縁あり、遊行寺主は代々熊野に参拝する例だった。助重が遊行寺の保護を受けたものとすれば、伝説や遺蹟はとも角として流落中その関係から或は熊野の湯の峰に来たかも知れぬ、殊に病気湯治の要あったとしたら湯の峰を志したは自然であり便宜もあった筈だ。それから湯の峰温泉は泉源は百数十度の高熱で湧出量の非常に多い硫黄泉であり、皮膚病に卓効あり殊に癩患者に効験顕著なりとし、近年まで同患者の湯治滞留するもの多くその為めに隔離的の浴場まであって草津と共に有名だった(昭和六年春、その浴場を廃し患者は悉く草津へ移転)ことなど——説話作者としては藤沢遊行寺と毒酒で癩の如くなった小栗と、湯ノ峰とを繋ぐのは不自然でなく思ひつき易いところだったらう。

旡名翁随筆にいう。「小栗判官兼氏、讒者のために身を亡ばし、浪々の後画工となり小栗宗丹という」と。判官が宗丹であるならば宗丹は寛正五年六十七歳で歿したというから落城の時年二十九で三十七歳まで放浪した勘定になる。その若さなら照手とのロマンスもあっただらうなどと小栗物語を事実としての誇索はドウかと思う。安斎随筆に「百合若実記、小栗実記、三楠実録、以上三書とも実事はすこしばかりにて偽作多し」とある。これが注意すべきところらしい。折口信夫氏は「餓鬼阿弥蘇生譚」(大正十四年一月雑誌民族一巻二号)と「小栗外伝』(大正十五年十一月同二巻一号)の両文で小栗物語の解説を試みられている。蘇生譚は説経正本をぐり判官(享保七年正月板行)に小栗主従十一人、横山父子に毒を飼われ、小栗一人は土葬、家来はすべて屍を焚かれたが、閻魔の廟で共に蘇生を許されたが、家来は魂魄を宿すべき骸がないので脇立の十王となり、小栗一人

人が蘇生させられうわのが原の墓から小栗が餓鬼のむくろに蘇えったことをのべて餓鬼のこと、ぬさと米と、餓鬼つきなど項を分けて説き、「精霊が法力によって内身を獲て人間に転身したという伝説の原型があって、うわのが原の餓鬼阿弥の蘇生物語が出来たものだらうといい、念仏衆の唱導でこの霊験譚の信仰が保存せられた事は否まれぬとあり、外伝では餓鬼身を解説のこと、 魂の行きふり、土車に項を分ち小栗譚と同型のものその他に就て語っている。詳しくは氏の論考を見られたいが、ここには湯の峰温泉にナゼ小栗判官の伝説のみが残り、車塚や力石があるかを考えればよいのだから、直ぐその方へ向うこととするが、小栗判官の譚の発生の原因は折口氏説にお譲りして、とにかく古くから小栗のことが念仏の徒などに説かれ、それが後ちに説経となり浄るりとなり、いつしか車塚や力石などが出来たのであろうとするのが安全らしい。実在の人としては如何に詮索してもこの説は解けず、又解けるべき筋合ではないらしい。なおまかず稲の田は日向の高千穂峯にあるのが有名で、百井塘雨の笈埃随筆、伊勢貞丈の貞丈随筆などに出でまだその他にも幾つもある。

(昭和七年三月、旅と伝説五年三号、後ち補正)

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.3.14 UP


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