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楊枝薬師の話

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

戯曲(じょうるり)「三十三間堂棟木由来」は

——むざんなるかな、稚きものは、母の柳を都へおくる。元は熊野の柳の露に、そだてあげたるそのみどり子が、ヨイヨイヨイトナ——

のさわり、連れ弾がはいって、しんみりとした味をもたせながらも艶やかに、語られてゆくその一節とともに、季仲が鷹狩に鷹の足緒がかかったとて、数多の武士に切り崩され、すでに枯れなんとした柳の木が、平太郎の一矢の手柄で鷹を助け、柳もために救われた。その時の情けの恩をおくるとて、柳の精が美女のお柳となり、平太郎と添うて緑丸をもうけたこと、その柳の精のお柳が、なつかしの夫、いとしの縁丸と、飽かぬ別れに泣きぬれながらも、「最早朽木も時をえて、一宇の棟木となることも、一ツは妙なる法の縁」と、その身の仏果を喜んで、三十三間堂の棟木となったという話は、知らぬものがない位だ。

紀州熊野川筋の楊枝の薬師堂は、その柳の生えていたところと伝え、棟木の旧蹟というので宣伝もし、遊覧客の詣で訪うが多く、熊野川筋の名所となっている。ところが、紀伊続風土記は「相伝う、この地古大柳樹あり、高さ十四丈、枝葉川を覆い日足村の貝持岩の辺まで枝を垂れしという故に楊枝の名あり、京三十三間堂の棟木にその木を用いしというは誤伝なり」とキッパリ形付け、薬師堂に就いては文安元年の棟札の写を掲げて由来を明らかにしているが、その棟札には「当寺は熊野山五ヶ村中の氏寺なり、昔、浅里領の飛鉢峰において専念住持創建の道場なり、久しき年序を経るの間既に𣏓壊に及び畢んぬ、ここにおいて楊枝の住侶西心入道、五ヶ村中の助成を以て彼の本尊を揚枝の岡の地の移して而して堂宇を建立あい本尊を安置するものなり、委細に旧記に見ゆ、この在所にて一百二十余歳の星霧を経てその後五ヶ村中の衆議を以て応永十八歳仲冬のころ堂舎、二尊をこの在所に移し奉る、末代群生を済度するための霊場矣、既に造替といえども未だ修営周備の功を途げず、ここに文安元年甲子の春夏の間悉く造らしめ畢んぬ、同年仲冬十五日申時上棟祝を成し同日成時本尊を殿内に奉るものなり、造営同上棟等の経費併せて五ヶ村中の御沙汰なり』(原漢文)とある。即ち薬師堂は、もと浅里の飛鉢峰に専念が建てた道場あったのを、楊枝の僧西心が楊枝の岡の地に移し、それから百二十余年をへて、応永十八年に今の地に移したが、文安元年に造営したというのだ。文安元年は紀元二一〇四年で昭和七年から四百八十九年前にあたり足利氏将軍の時代である。その頃にはまだ三十三間堂の棟木のことも、お柳の話も付会していなかったらしい。

飛鉢峰は熊野川の沿岸、楊枝から少し下流の浅里村にあり、保元平治のころ、専念上人、ここに道場を建てて住み、鉄鉢に綱をつけて山上から川涯へつりおろし、熊野参詣の諸人に施物を請うた、飛鉢峰の名はそれから起るという。飛鉢の伝説は越後の米山をはじめ各地にあり、それをお話しすれば長くなるが、岐路に入るを避けてここには割愛する。とにかく、この専念の道場を、 西心が楊枝へ移したのである。

それから棟由来には、お柳が「仏果につれし縁あれば情の恩に報ぜんため、一ツの筐参らすると平太郎が手に渡し、それこそはxxのxxが前生の御頭なり、それを手柄に御身のうえ、再び出世をなし給え」とあるが、これは

xxxxxの御前生は熊野にて華蓮坊といいし僧なり仏道修行の功によって今××に転世あり前生の髑髏岩田川の水底にありて柳樹つらぬき生じ風ふくごとに動揺するによりて今の御身に応じて平日頭痛の御悩ありと夢見たまいて、やがて岩田川を探りて髑髏を得、これを観音の頭中にこめて三十三間の堂を造りて蓮華王院と号し、かの柳樹を堂の梁とすといえり

という例の「或伝」から、戯曲に作りだしたのであろう。紀伊続風土記はこの或伝の説を、古事談に基いた説であるとし元来が晴明の奇特をいわんとする浮説で、それを後世の僧が牽強して伝えたものであらうと断じている。事質それに相違なく、練由来は更にそれを潤色したのだ。しかし紀南郷導記には「楊枝村、比所に浄楽寺あり、往昔京洛三十三間堂の棟木を伐出せしとなり、これ柳の木にてありしとなり」とあって、元禄の末には或伝の説が一般の説話となっていたらしい書きぶりをしてみいる。

以上の諸点から申すならば、楊枝の薬師堂じつはお柳の旧蹟というは疑わしい。つまり戯曲が成り それが語られ芝居となり、広く知らるるにおよび、いつしかお柳の旧蹟となったもので、浄瑠璃名所というのが当たっているだろう。因みにこの薬師堂一両年前から仏教某宗と某宗の争奪が起り訴訟沙汰とまでなっていたが、お薬師さまが愛憎をつかしたものか、今春不時の火災で烏有に帰したことを付記しておく。(昭和七年六月、旅と伝説五ノ六、後ち一部修正)

(追記)昭和七年六月旅と伝説へ、以上の拙文を発表したところ、南方熊楠先生は同年八月の旅と 伝説に「人に化けて人と交った柳の精」と題し、宝暦四年に完成した裏見閑話に甲州板垣里の定額山善光寺は永禄中武田信玄建立という。造営の時、中郡高畑村の古柳を伐って本堂の棟木とすることにきまる。そのころ隣里遠光寺村の農家の美しい娘の許へ、夜ごとに通いくる男あったが、明日は柳を伐るという晩、男は娘に向い、我その方と契を結ぶこと既に二歳に余ったが、今は今生の縁つきて今夜限りであると名残りを惜しみ、我れ誠は人間にあらず、高畑村の古き柳の精、その方の艶色をめで仮りに人と化し夫婦の約束をしたのであるが、明日は寺の棟木となるために千年の命を失うのである、しかし仏法道場の良材となるのだから悉皆成仏は疑いない、われは伐りとられるが千、二千の人力をもってしても動かぬ、その時その方が音頭をあげてくれれば動くであろうと告げた。翌日は古柳を伐り倒し、数千の人々で動かそうとしたが動かず、その時かの娘が立ち出でて今様を唄うと難なく動いて寺へ着いたとある。棟由来の戯曲は宝暦十年の作で裏見閑話におくるること六年、作者若竹笛躬と中村阿契は恐らくこの甲州の説話をもってきて、熊野の巨柳にくっつけたものだろう、謡千引は石の精が男と現じ女と契った話でこれと似ているとの御教示があった。詳しくは先生の原文を見られたいが、これで三十三間堂棟由来の戯曲の種が、スッカリ明らかになし得たことを皆さまと共に喜びたい。前記の拙文——私のお喋べりは枝葉のことで、根幹は以上の先生の御示しにある。

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.8.7 UP


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