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西国巡礼の起こり

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

那智山青岸渡寺
那智山青岸渡寺

熊野の那智山は西国第一番の霊場で、「ふだらくや岸うつ波はみくまのの…」の御詠歌は、那智のお山にひびく瀧つせと共に世間に響いている。紀州には那智の外に、「ふるさとをはるばるここにの紀三井寺」があり、「ちちははのめぐみも深き粉河寺」があり、この二番と三番の御詠歌は阿波の鳴門の浮るりにも出て、可隣なお鶴の日から歌われ悲しい物語に縫われている。さてこの西国霊所、那智のお山に始まって、親とたのみし笈摺を、ぬぎておさむる美濃の谷汲まで、三十三ケ所の観音さまが定められ、かつは巡礼の始まったのは、いつ頃からの事だろうか。ちょっと知りたい気が起こる。

『塩尻』には寛平帝(宇多天皇)御出家ありて臆言を真言を益信(やくしん)に受け灌頂ありて云々とあるが、帝は行脚のことおわさぬから、巡礼の始まりとは申し上げられぬ。新拾遺和歌集には「修行させ給ひける時粉河の観音にて御札かゝせ給ひける御歌」と題して花山院の御製

むかしより風にしられぬ燈火の光ぞはるゝ後の世のやみ

を載す。新拾遺は後光厳天皇の貞治二年京極為明勅を奉じて撰集し為明没後頓阿法師がこれを継いで完成した勅撰集だから確かなものだ。平安朝に観音参拝の行われたことは知られるが、しかし、これだけでは花山院さまが三十三ヶ所を巡拝され給うたとは言えない。

『西国三十三所名所図会』には冥応集を引いて「巡礼の権興は道徳上人なり」といい、養老年間、 和泉長谷寺の道徳上人が病気にかかり息が絶えて冥土へ往ったところ、閣魔さまは「日本には観音の霊場三十三あり、その地を踏むものは悪趣に陥らぬ、お前はモ一度娑婆へ帰り、人々に善因を結ばしめるがよい」とて三十三の宝印を賜ったがその宝印にはそれぞれ名所の名があった、道徳甦った後ち深く霊験を感じ人に勧めて巡礼させたのが始まりだとあって、「花山法皇と仏眼上人と書写山の性空上人と弁光僧正、良重、祐懐と共に絶えたるを継ぎ巡礼したまう、その時那智を第一番とし給う云々、法皇を中興開山と称するか」とあるが、長谷寺縁起にある性空上人のことは架空の話が多いし、かたがたこの説はモ一つ信用し難いようだ。

千載和歌集』に「三十三所の観音おがみ奉らんとて所々にまいり侍りける時、みのゝ谷汲にて油の出づるをみてよみはべりける」と前記して

世を照らす仏のしるしありければまた燈火も消えぬなりけり

と前大僧正覚忠の和歌がある。千載集は寿永二年後白河院の院宣を奉じた藤原俊成の撰集にかかり後鳥羽天皇文治三年に成った勅撰集であり覚忠は延暦寺の座主となった人であるから確かだ。この歌は源平戦の始まらぬ前に詠んだものだろうが、三十三所観音とものの本に見えるのは、これが恐らく最初であろうとの事だが、何にしてもこれによって平安朝の末には、三十三ヶ所の備わっていたことが知れる。

壒嚢鈔にある久安六年長谷僧正参詣次第、拾芥抄にある建武元年十一月十六日中宮珣子内親王御着帯、同二年正月二十八日御産の御所あった時の記に共に三十三所観音の文字が見え、更に下って、天陰語録、幻雲稿にも見え殊に幻雲稿にある清水山新建慈願寺幹縁疎(有序明応七年戊午)に「爾来士度帰仏者不一詣之、則終身恥也、然関門之吏、山柵之賊、奪嚢中糧、取笠底金、雖有素願不得逐焉、則改服変名、傍門糊口、裂裳裹足往来憧々、霜辛雪苦、無不備嘗、国俗請之三十三所巡礼」とあるを見ると、室町時代には既に巡礼の盛んだったことが知れる。

最初は単に三十三ヶ所(この三十三というは、観音が衆生済度のため身に化したという経文に基くらしい)であったのが、ナゼ西国三十三ヶ所というようになったか。近江石山寺の順礼板に

甲州巨摩郡布施庄小池図書助西国三十三所順礼道時弥勒二年丁卯六月吉日

と銅板に彫付けたのが現存する(兎園小説にも出づ)。弥勒の年号はちょっと分らぬが、妙法寺記 に永正四年と書き弥勒二年と註している、永正四年は丁卯だから同年であろう。この銅板の主が関東人であるのは注意すべきで、多分鎌倉時代から室町時代へかけて、関東地方の人々が西国三十三ヶ所あるいは西国めぐりと称したのが、遂に西国三十三ヶ所とよばるる始めであるまいかという。 坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所(以上で西国と共に百ヶ所という、秩父は一ヶ所多い)、江戸洛陽、大阪各三十三ヶ所など、いずれも起因は明らかでないが、西国を模倣して出来たものであり徳川時代のものであるまいかとの話だ。

さて、西国三十三ヶ所の霊所だが、昔からの記録をたどると、霊所に多少の変遷もあり順序にも幾分か異なるものあるが、現在と大した相違は無かりそうだから、ここにはそれらの詮索は省く。ただ西国の順番は故藤田明氏の説によると、関東地方の人々が上方見物をする順らしいという、 即ちまず伊勢の大廟を拝して熊野に入り、大和路から京に入って美濃で笈摺をぬぐは、関東から来て関東へ帰る道順だ。二番紀三井寺の歌の「ふるさとをはるばるここに紀三井寺、花の都もちかくなるらん」は、ふるさとの関東を出て伊勢、熊野をめぐって紀三井寺に出で、花の都の近くなったことを言うたものだろうというのだ。(歴史地理、十巻一、一号)あるいは左様かも知れない。

江戸三十三ヶ所では寛文のころ、洛陽三十三ヶ所では元禄のころ、大阪三十三ヶ所では延宝のころ、富家の婦女は言うも更なり、例のその頃売女と言われた花柳界の美人たちが、衣装に伊達をつくし笈摺胸札をかけ、遊山的に巡礼をして廻り、盛んにエロを発散させたらしいが、西国霊場は国々に遠く散在し、殊に那智のお山の第一番は南海に遥かに隔て、熊野の峰巒には神秘の煙嵐絶えず、千古霊気をたたえ俗塵を絶った仙境たりだ。

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.22 UP


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