み熊野ねっと分館
み熊野ねっと

 著作権の消滅した熊野関連の作品を公開しています。

 ※本ページは広告による収益を得ています。

紀南へ甘藷を将来した人

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

サツマイモ

潮岬をはじめ大辺路の村々は、枯木灘を見はるかす海沿いの台地が、悉く段々になった甘藷畑で甘藷が名物であり主産物で、この辺の風物を詠んだものにも

藷秋や岬とはいへひろひろと  中村 三山  昭八、ホトトギス
甘藷ほるや洋の果より来る鴎  北尾 佳泉  同、紀伊新報
洋を見る目を輝かし甘藷掘女  同      同

などある。この甘諸を南紀州へ将来したのは誰れかというと、元和寛文に僧鼎山あり、安永寛政に安宅川弥六あり、慶応に植松弥助がある。鼎山は大辺路の和深の上品寺(臨済宗)の開山、寛文六丙午歳九月二日示寂、世寿は未明であるが六十歳を越えていたらしいという。口碑では薩摩の人であったという、同寺開山画像の讃文に

執為人鎚、懸奪命符、并吞諸方、不顧窮決之宗、闢山嘯指或就睡、睨視仏祖、要據無之律、覆茅放昿恒如愚、錯中大円之狼毒、晚擢南龍之領珠、転薩芋干紀陽、群苒擊壤戴鑽戴仰、顕慈峰干華園、鴟鶚入棘爰鼠爰趨、普拶下機憐他飢渴、親澤二木、除彼敗蕪、別々此山九鼎軽如葉、秋去春来鑽宝匹区、文化十二乙亥仲春現佳遠孫藍溪九拝謹書

とあり、この画讃は鼎山没後百五十余年の後に成っているが、それまでも画像があり文化に更改したのか、但しは文化に初めて成り寺博伝によって讃文が成ったか、いずれとも今は明らかならぬが薩摩のいもを何処からか将来したことはこれで分る。寺伝では鼎山は元和元年に甘藷を将来したので、その種類は明らかならぬが久しく貯蔵し得ぬものだったので、栽培が広く普及しなかったらしいという(以上は平楠太郎君の調査による)。

安宅川氏は田辺地方の旧家で代々弥六の名を世襲した。今の田辺町大字元町(元の西ノ谷村)に住み旧藩時代には地士の待遇をうけ、西ノ谷村の庄屋を世襲しかつ村の大部分を所有する大地主であった。甘藷を伝えたのは八代目の弥六で、将来したのはいつ頃か分らぬが、同人は寛政九年に没しているから安永、天明の交であろうと思う。その種類は赤、白、うす赤等であった。この甘藷は地方に伝播し盛んに栽培されその効用は大したものとなった。八代弥六は大地主として農業の改善に心を用い、将来したものであろうがその経路等は今知るを得ない。

植松弥助は串本の人、明治十五年三月十七日七十六歳で没したが、慶応二年二月即ち弥助六十歳の春、諸用を帯びて九州日向に赴き帰途阿波国海部郡志和木村浜口広助方に立ちより滞在中、同地の甘藷、一種異類にして良種なるを知り、三貫匁を求めて申本に持ちかえり試みに栽培したところ、風土に適し繁殖著しく、数年ならずして紀南各地に伝播し、熊野芋、弥助芋の名をもって広く知らるるに至った。これは九州イモと称するもので味は劣るが砂地の栽培に適しかつ貯蔵し得るものである。いま大辺路の村々で名物となり、農産物の主位を占めているのは、この弥助イモである。

因みにいう。現今では穀物、蔬菜、果樹等の優良品種の取りよせ等は——どの地方にはドンなものがあるかを知るのも容易であり、それらの種子、苗木を取寄せるのも簡単でありその栽培法を知ることも問題でないが、旧藩時代には交通の不便と封建割拠のため、それができなかった。ドコにドンなものがあるかは、当時屈指の識者でなくては知らぬことだった。しかも種子、苗木の取寄せは、各地ともその藩の利益を保全するために概ね移出を禁止し、中にはその物産を厳秘にしたのもあった。そうした時代にこれを遠隔の地に将来するは容易でなかった。甘藷は幕末慶応の以後は別として、薩藩では移出を国禁としていた。そうした時代の背景を考えて、鼎山や弥六の功績を讃えねばならぬ。しかも人には没後にも遇不遇あり、植松弥助は明治に没後和歌山県知事から表彰されているが、鼎山と弥六の功績は、全く没却されている。  (昭和七年九月紀伊史談十二号、後ち修正)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.27 UP




ページのトップへ戻る