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応挙、芦雪と愚海寒渓

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

南紀東富田の草堂寺と申本の無量寺と西向の成就寺はともに臨済宗の東福寺派だが、無量寺には応挙の群仙の図その他、草堂寺には応挙の梅花の図の大作あるほか、両寺の本堂、客殿の襖、戸袋その他悉く芦雪の揮毫でありかつ芦雪の画を幅として蔵するもの多く、ために両寺を芦雪の寺といい、成就寺にも芦雪の画が多く、文雅の士でなくとも、所の名物として過ぐれば訪うて見るを例とする。串本で伝えいう、無量寺の愚海和尚、まだ若うして京に雲水だったころ、まだ名を成さぬ応挙と親しかったが、応挙は和尚に向い「あなたが一寺を建立すれば、私はその寺のために揮毫しましょう」と約束していた。愚海、無量寺を中興したのち、応挙にかねての約束を語って揮毫を請うた。応挙はすでに大家となっていたが、昔日の約を忘れず、しかし自ら来られぬ事情あり、高弟芦雪に自己の揮毫をもたせて代って訪わしめたと。富田でも草堂寺の和尚のこととして、同じことを言い伝えている。しかし両寺ともにそれに関する記録がなく、芦雪来遊の事情は今は分らない。ところが、芦雪が帰途立ち寄った南紀田辺郊外の高山寺の第十世義澄の『三日含』と題する日記体の備忘録に

画師長沢芦雪公者元丹州笹山之青山下野守家臣父者上杉彦右衛門附役也、後淀城主稲葉丹後守臣下と成る。芦雪公は画工之道を立て姓名者別つ。今油之小路六角下る所井筒屋清兵衛之まかないなり。父後和左衛門と改号す。串本無量寺和尚同道にて下り無量寺、西向の成就寺、富田高瀬の草堂寺客殿之画芦雪書、帰京之節当山滞留、三四日の內上段藏前膳越屏風寒山の大幅等書画す、今年星霜三十四歲。
時天明七年丁未二月中旬
号は芦雪、名は魚、字は氷計
富川より十二日晩方来り十五日昼出立、画の謝礼一百目銀を遣す
芦雪の師匠京都円山主水なり。

と記している。無量寺の愚海が京から芦雪を伴うてきたことだけは、これでわかる。愚海は無量寺の中興開山で、同寺が寛永四年の海嘯で流失し荒廃していたのを、六年愚海入山して再興を発願し、以後十七ヶ年にして天明五年新築が成った。これは同寺の記録で明らかである。愚海は寺の新築が一通りなったのち、天明六年の秋ごろ、芦雪を京からつれてきたのである。応挙の大作をも伝えているところをみると応挙が約束していたという伝えもあるいはあったかも知れぬ。応挙は寛政七年に没し愚海は享和三年に示寂しているから年齢も大差なかったらしく思われる。それから草堂、成就両寺との関係だが、これは法系を調べて見ると(文政十二年聖一国師五百五十遠忌記念出版、東福寺宗派法系図による)

                       ┏仙峰(無量)—愚海(同)
洞外(草堂寺中興)—松岩(草堂)—義海(草堂)┫
                       ┗棠陰(草堂)—栴渓(成就)
                              ┗栴渓(草寒)

となっていて法類の間柄である。愚海は草堂棠陰の推薦で無量寺に入ったとも推せらるるという。とにかく愚海の紹介で芦雪は成就、草堂にも留まり、多くの作品を遺したのであると知れる。

芦雪は酒が好きで、草堂寺滞在中に子供たちに酒買いを頼み、紙片に疎画を描いたのを賃に与えたりしたという。それから草堂寺にある芦雪の屏風岩上白猿の図は、小僧が誤って墨汁を覆したのを、とっさにぼかして岩石にしたという。事実はどうか知らぬが、ちょうど佐竹永海が、江戸上野山内覚如院の杉戸を画き、墨汁いまだ乾かざるに酔に乗じてその上を躍舞し足痕を乱印して責めらるるや即ち手桶の水を杉戸にくつがえし補筆して雲中龍としたというのと、似た話である。

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.27 UP


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