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道成寺物語の推移

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

紀州日高の道成寺、安珍清姫の説話は謡曲、舞踊、俗唄など多く、あまりに有名でありあまりにも親しみ深い。誰でも御存知だから筋は申さぬ。ただこの物語の発生の一端だけを覗く。

安珍清姫のことは、長久二年沙門鎮源の書いた大日本法華経験記巻下の第二十九紀伊国牟婁郡悪女の条が最も古い文献であり、恐らく最初の記載らしい。これには「有二沙門、一人年若、其形端正、一人年老、共詣熊野、至牟婁郡、宿路辺宅、其宅主寡婦、出両三女従者、宿居二僧到志労養。」と書き出している。次は宇治大納言隆国卿の書いた今昔物語の第十四紀伊国道成寺僧写法華救蛇話だが、これには「今ハ昔、熊野ニ参ル二人ノ僧有ケリ、一人ハ年老タリ、一人ハ年若クシテ形貌美麗也、牟婁ノ郡ニ至テ人ノ屋ヲ借テ二人共ニ宿リス、其家ノ主寡ニシテ若キ女ナリ、女従者二三許有リ。」と書き出している。験記は漢文で今昔は和文だが、内容は少しも違うて居らぬばかりか、文字も殆んど同じである点から推して、今昔のは験記を和文にしたものかと思う。何分験記は長久二年(八百九十一年前)のものであり今昔は何年に成ったか明確でないが隆国卿は承保四年(八百五十四年前)に七十四歳で没しているが、五十歳前後に記したものとしても験記から僅かに二十年ばかりの後だから説話に変化が無かったらしい。さてこの験記の今昔で注意すべきは、共に安珍の名も清姫の名もなく、所もただ牟婁郡とばかりあって女は宿舎の主じで寡にして若い—寡婦といえば今では未亡人のことだが、その頃の意味では独り暮らしの女だったとあることだ。

虎関禅師が元享二年に撰した、元亭釈書の巻十九には「釈安珍居鞍馬寺興一比丘詣熊野山至牟婁郡宿村舍、舍主寡婦也、出両三婢餉二比丘、珍有姿貌、…」と書き出している。徳川期の博識屋代弘賢はその著道成寺考で「僧の名を安珍ということと安珍の鞍馬に住せしということは、この書に始めて見えたり」というているが事実は正しくその通りであって、駿記から二百八十二年の後、安珍という僧の名が初めて書物に載ったわけだ。しかも清姫の方はまだ牟婁郡の寡婦とだけで、所も名も朦朧だ。

それから謡曲「道成寺」に(ワキ詞、むかし此所にまなこの庄司という者あり、彼者一人の息女を持つ。またその頃奥より熊野へ、年詣する山伏のありしが、…」とあるが、これは観阿弥の作と伝え、応永頃のものというから、元亭輝書から七十余年後に出来たのだが、それに始めて安珍が、奥州の僧となり、まなごの庄司という名も現われたのである。山崎美成の世事百談に「おもうにまなごは氏にはあらで異名なるべし、あまりに娘をふかく寵愛のあまりになどいうこともあり、愛子をまなごとよめることは、万葉集の歌に『人ならばおやのまなごぞあさもよひ紀の川上のいもとせの山』また催馬楽の、我門に『まなむすめという詞も見えたり』とあり。謡曲のまなごの庄司はこの歌に因んだのであるまいかと思われる。仮りに左様だとすると真砂の庄というのも怪しくなるわけだが、既に熊野参拝の途、牟婁郡に至るといえば田辺本宮間の所請中辺路が熊野往来であり、御幸に御駐泊あらせられた滝尻王子のあたりが、真砂の庄、現在の栗栖川村大字真砂であるから強ち古歌のみに因ったとは言われぬかも知れぬ。

安珍清姫物語(道成寺から出したもの)にこれを延長六年のこととしているのは応永三十四年に道成寺が天台宗になって五百年目となるを記念してのもので、延長六年から繰ってゆくと丁度五百年の昔に当たるかららしい。縁起画巻の画は土佐光重、書は後小松院の御宸筆とも僧正徹の筆ともいうが、宸筆風でないから正徹であろうといい、また正徹でもないらしいとの説もある。何しろ道成寺は平安朝初期の建築たる事が明らかであり、その本奪並びに脇立は国宝中でも屈指の傑作とされているが、創建は勅願によるといい紀の大臣道成の造営だというが、それらには疑があるとされている位、それほど寺伝は失われていながらも当時屈指の大伽藍として建築されたことは明らかだ。この名刹と安珍清姫の説話がどうして結ばれたかは研究すべき好題目だが、こには安珍清姫説話の推移ぶりの概略に止める。  (昭和六年十一月紀南の温泉)

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.28 UP


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