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ふるさとの女性

佐藤春夫

 

 十九の春故郷を出て以来、その後、時偶(ときたま)帰省せぬでもないが滞在の期間もあまり久しくないし、特別に郷里の女性に就て観察するところもない自分である。妻は他郷の者だからこの方の縁故も故郷の女性には遠い。それにつけて思ふが、優生学上の論は知らず人情としてはやはり少年時から顔見知りの所請筒井筒ふりわけ髪同志の山川草木みな同一のものを見慣れて成長し風習なども相似たのが自然話題も豊富で面白からうと思ふが、果してどんなものであらうか。

 閑話休題(それはさておき)、十九ではいかに早熟な吾輩でも女性に関してただ十分な観察を持ち得なかつたのは当然かと思ふ。故郷の和歌山県新宮市は当時まだ町ではあったが城下町で、熊野川の河口に位する都邑、木材の集散地として天下に知られただけに田舎町としては寧ろ華美な土地柄であつたから今日追想して見ても別段に郷土色といふ程のものが土地の女性の生活に著しく現はれてゐたやうにも覚えない。強いて言へば、田舎の町としては婦女風俗なども早く都会化してゐたといふその点をでも先づ郷土色と呼べば呼ばれない事もあるまいが、それでも町から少々離れた山里や漁師町などにはまだ幾分の特色があつたものである。

一例としては、新宮の町の南方一里半ばかりの土地にある三輪崎といふ漁村(現在は新宮市内)から魚介類を町へ行商に来た婦女たち——町の人々が一般に「いただき」と呼んだ彼女等である。その顱頂に「はんぎり」といふ盥形の浅い大桶をいただいて商品を運搬してゐたからこの称があつたものと見える。彼女等は三々五々から数十人も群をなして早朝村を出て一日中町内を売り歩いて夕刻家路に帰るものであつた。夏期などは魚の持越を危ぶんで誘ひ合つて夕刻から出て来る者もあつた。京の大原女を磯臭くしたやうな風俗や、そのけなげに素朴な商ひ振りをおぼろげながら思ひ出す。

「不器量な子ちやけれど、気立のよい愛嬌者ぢや。正直で品物も安くてよい」
 と母がそれの来るのを待ち受けて外の女からは買はないやうにしてゐるのもゐた。布子の膝を魚の鱗で光らせてゐる女たちのひとりである。

 頭でものを運ぶ風習は追々と廃れて肩で運ぶやうになつたのは自分の出郷後間もなく新宮勝浦間の軽便鉄道が出来て、この行商女たちも汽車を利用するやうになつてから車室出入口よりも大きなはんぎりが乗車に不便なため止むなく肩で前後に荷負ふ籠に改めたものらしいが、彼女等は其後も当分は旧習を慕うて「はんぎり」の便利重宝を讃美してゐた。

 自分は郷里の山村の地方は殆んど知らないから目撃した事もないが、柿園詠草で
  いただきに杣板のせてくだる子がうしろ手寒き那智の山かぜ
  うちかける板目に切れし黒髪を由々しと見つつせこやなげかむ
 とあるのを見て、いただきの風習は漁村三輪崎ばかりではなく山地でも同様であつたことも判り、熊野の女性が山地でも海辺でも男子を助けてよく労働する美風のあつたのを知つた。

 旅行家は屢々熊野の女性を美人系であるといふ。海を渡つて山中に来た旅行家達がさう感ずるのは必ずしも不自然ではあるまいがそれは恐らく専ら彼等の旅情のためであらう。自分は故郷の女性の不きげんを揮らず真実を申し述べるが、わが郷の男性はいざ知らず、女性は残念ながら美人系とは信ぜられない。その容貌の点よりは寧ろ彼女等の取柄としては気質に南国的な快活な面白いところがあるのではあるまいかと考へても見る。無論必ずしも美人を絶無と申すつもりではない。明治の初年柳橋で名妓の名を一代に謳はれた小さんはわが郷の出身であると聞いてゐる。

 土地が狭いから男子の他郷へ出稼に出る者が多いのを見倣つた結果かも知れないが熊野の女性は以前から郷関を出ることを好むものが多い。前述の小さんが柳橋で嬌名を天下に馳せたのも明治もまだ十八年の頃といふから、以て熊野女性の都会への進出が早かつた一例とすることが出来ると思ふ。一族の中西維順翁に婢女長歌といふ長篇の狂歌があって、大阪に出て女中奉公の末に身を持ちくづした女を詠じたものがあるのなども都門を憧れる郷党の女子を戒める料にしたものであつたらうかと察せられるにつけて土地の女子一般に郷関を出て京大阪などに奉公することを喜んだ風潮が多かったものとも考へられる。

現今では濠洲や米国などへ飛び出して行ってゐる女性は相当に多い。尤もこれは女性だけではなく男子の亜米利加出稼は日本でも屈指の地方だから女性が自然その中に雑ったり、或は単独に志を立てて遠く故郷を離れる気になるのも不思議はないわけである。これ等の女性の郷里に帰つた者は時々他郷からの旅行者を屢々驚かせるものである。

往年浜本浩が帰省中の自分を郷里に訪うてくれた時潮岬附近で年増の女性でコーヒーの入れ方を喋々と論じてゐるものを見て感心してゐた。愚妻も郷里の荒物屋でポスターを見てゐた一婦人が
「まあこれやチヤイナガドレス着てゐるのぢやのし」
と語ってゐるのを聞いて来ておどろいてみたが、これ等は皆亜米利加三界で生活して来た婦人達であつた。日本中でパパママを恐らく最初に用ゐ始めたのもこの地方であつたらう。——一向お国自慢にもならないが。

 かういふ地方だけに男子の在米の留守をしてゐる妻女も尠くない。土地では彼女等を仮りに名づけて亜米利加後家と称してゐるが、これ等もこの地方の女性を視る場合に、地方色を現した婦人として注目するに足るものであらう。

 これ等の事情も一種の刺戦となって、熊野地方の女性は辺陲の地の割合には井の中の峠の謗を割合に早く脱れ得て居たやうに思ふ。

 すべての中央集権主義の結果か、たとひ「故郷の女性」などといふ好もしい題目を見つけても何人の故郷もどの地方も今では多分大差のない流行婦人雑誌型の女性ばかりになってしまひつつあるのではあるまいか、今日の時代に地方色を尊重することは不可能なそれだけに地方色のあるものが珍らしがられるのでもあらうか。

我等の熊野地方は今日までは幸に交通の便があまりよくなかつたので人情にも風俗にも多少とも地方色のある地方として残存してゐたが、紀勢鉄道の完成と同時にさなくとも進出好きの熊野女性が他地方へ盛んに流出して、近代文明を郷土に移入し地方的都邑としての自尊心と品位とを保持してゐた新宮市の女性などは先づ第一に婦人雑誌型女性の典型となつて場違ひの東京女性となり、この同じ事がもう一度この地方一般に行はれるのであらう。これを地方の開発と呼び、文明の滲潤と呼ぶか。

 

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)6月1日発行の『婦人公論』(第二一巻第六号)に掲載

(入力 てつ@み熊野ねっと

2015.9.17 UP



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