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鯨ゑびす物語

佐藤春夫

古式捕鯨狼煙場跡

         一

 初刷に随筆をと申されるままに需めに応じて何かなめでたい話題をと思ひめぐらすうちにふと念頭に浮んだのは西鶴が永代蔵のなかに紀の国にかくれもなき鯨ゑびすと謳はれてゐる成金の天狗源内が事。

 西鶴が文中に紀の国大湊泰池が浦とあるのは疑ふまでもなく 我等が郷里に近い太地の地、これが熊野捕鯨の本場ではあり、源内といふ名までは知らないが天狗といふ変つた姓は紀州には稀にある姓だから天狗源内といふ人物ももしや実際の人物鯨ゑびすと謳はれる成金振りも事実談ではあるまいか。もしわかつたら考へて見よう。西鶴が創作態度の参考の一端位にはならぬとも限らないと思つてゐたところ、先日端なくもそれらしいモデルを発見し、天狗源内とはこの人亡是公に非ず——そのこと架空談に非ざるべしと少々見当がついたといふまでの事、——本文の大要はこれで尽きてゐるから、当世向きでもないそんな 話題は御免と申される向にはこれ以上は御手間をとらせないと 仕らう。

 ただ、何も新年の事だ閑つぶしに折角書いてゐるものなら読んで置いてみてやらうと仰言る方にだけごゆるりと御覧を願ふ事に致さう。せめて文芸欄の一隅ぐらゐには時にこんな閑文字が残つてゐるのも泰平の象と申すものではあるまいかと自画自讃、咳一咳して曰く——

  天狗といふ姓は和歌山にも高名の鍛治にあるとかで先づ天狗源内に目をつけられた南方熊楠先生は新宮の天狗鍛治の事を「何か其職の秘事を天狗より伝はりしとも申すことに候や」と、疑問にされてゐる。南方先生さへ御存じなき事ども我等風情の知るべくもないが新宮に天狗吉久と申す鍛治屋のあつた事は聞き及んでゐる。新宮の神倉神社に入つて丹倉山の近藤兵衛といふ天狗から矢の根の鍛術を受けたといふのでこれを姓としたと伝へられてゐる。兎に角変つた姓である。西鶴はこの姓を聞知してゐて熊野捕鯨に新工夫を凝らした人物に、天狗といふ姓を冠らせ、天狗からその法を得たやうに文飾したものか、それは単に空想によつても出来ない事ではない。それに太地の有名な捕 鯨家には天狗の姓を持つてゐる者のあるのを寡聞な自分はまだ知らない。従つてそれは一向考証の手懸りになりかねる。天狗源内といふ名は、或は天狗鍛治から転用した、或は単に詩的空想から創造した小説上の仮名であらう。

 然し鯨ゑびすの事は尠くも原づくところがあるらしい、卓享戊辰正月吉日(九月三十日改元元禄元年一六八八年)上梓の永代蔵のなかで、「近年工夫をして鯨網を拵へ見付次第に取損ずる事なく今浦々に是を仕出しぬ」とある文句に適ふ事実を郷土の捕鯨史上で発見するからである。

 銛によつて鯨を捕獲する事は、既に慶長十一年(一六〇六年)和田義盛の裔と伝へる和田頼元によつて創始されてゐたのがその後六七十年を経過したころには、銛によつて獲られるものは殆ど獲尽したのか、浦に寄るものは多く銛によつては得難しとされてゐる背美鯨児鯨ばかりとなつて毎年不漁に終ってゐた。

 一に漁法の不備に因ると気づいて対策を工案したのが当時分家して八戸になつてゐた和田一族のうちの才覚者で、土地の大庄屋役和田角右衛門頼治であつた。延宝五年(一六七七年) 鯨網を思ひついた。その後、年々の工夫改良が成功して天和三年 (一六八三年)癸亥の暮から翌(一六八四年)甲子の春に至る一冬の間に同地方の捕鯨高は座頭鯨九十一頭背美鯨二頭合計九十三頭に及んだ。

 年々の不漁の後を受けて、年々獲残してゐたものを一挙にして獲たといふ形であつた。これに勢を得た近接地方の浦々では鯨方が諸々の漁港に興り西国の鯨方十一組と数へられた。みな角右衛門を盟主棟梁と仰ぐものである。新漁法の発明者の名誉と暴富とが一時に四方へ喧伝されたのも尤もなわけである。この事実のある天和甲子(一六八四年)は永代蔵上梓の元禄戊辰 (一六八八年)を距る四年前である。

 西鶴が元禄元年に「近年工夫して鯨網を拵へ見付次第に取損ずる事なく云々」の文句を自分が事実に因ると云ひ、西鶴の所謂天狗源内を和田角右衛門頼治の作品上の仮名と断じようとする者である。角右衛門は二代以後覚右衛門と改め以後土地の長者として明治に及んだ。

 それにしても彼が発明した鯨網といふものは井戸綱程の太さで三十五尋に四十節あるといふ大綱で、銛によつて疲労し切つた鯨の周囲を取まくものらしい。これを「目おとし」といふ。 疲労し切つた鯨はそれの生と死との頃合を見計らつて老練な漁者が利刃を持つて海中に躍り入つて、鯨の背に穴を穿つて綱を通して(これを手形をとるといふ)船に曳かせるのである。手形をとる時機が早すぎれば怒つた鯨の狂暴のために人も船も粉砕されなければならないし、もしまたその機が遅れたならば死んだ鯨は海底に没し去つてこの千金の奇貨は曳くことが出来なくなる。手形を取る事は命がけの至難事だから世襲職で給銀も最高であるといふ)網は要するに在来の銛の補助にしかすぎないもので、手形を取る仕事を安全に適確にするに頗る有効なものらしい。一隊八艘の網船に各十二三人乗組み、一船事に網十八段を積んでゐるといふ。網曳船は十一人乗のもの 五艘と定められてあつたと聞く。

         二

 角右衛門は網の発明と同時に必然の要求として捕鯨船の船体や船隊の組織などにも大改良を施し、熊野捕鯨の中興の祖となつた。彼が鯨網を発明して以後彼の漁法で通用し、その後一世紀間は熊野捕鯨の全盛期である。蕪村に鯨に就いて多くの句作のあることは人の知るところである。特に熊野浦の地名の入つてゐるものは「十六夜や鯨来そめし」の一句だけであるが、時代からみて他の句もみな熊野浦を想像裡に置いたものであらうと推察するのは妄であるまい。

 熊野の捕鯨は秦の方士徐福の伝へるところといふのはあまりに神話である。和田合戦に敗れた朝比奈三郎が千葉を経て逃れて太地の地で土地の女によつて一子を得たものの三代目かが郷士となつてゐたのが泉州堺の浪人と遠州の漁夫とに語らつて銛でつく法をはじめたといふのが土地の定説である。山上の望楼によつて四里以内に寄つた鯨を見つけると或は で或は烽火で命令して急遽五百人の漁夫を駆り催しさては羽指し(はざし)だの太夫だのと階級のやかましい漁鯨の業を熊野海賊平時の練武と収入とを目的とする副業に起源するかと見るのが自分の想像説である。

 こちたき言挙(ことあげ)はどちらでもいい。折からの年賀の肴に我々は折角得た鯨料理を命じよう。まづ万人の好みに遵(したが)つて皮鯨を味噌汁の実にしよう。赤味はうすくそいで、みりんと醤油とにつけよう。鎌倉漬である。我等はこの赤味を生食するのを佳味の第一と心得てゐるが他郷の客人には鯨のさし身は少々不気味に違ひない。それでは仕方がない。今日のものにはならない。明日か明後日、鎌倉漬の漬かりごろを見計つて金網にかけて炭火で焼かう。

 それとも壬生菜をそへて鍋にしてもいい。百ひろ或は豆わたなどと呼ばれてゐる大腸小腸は生薑を入れて、二杯酢にする。 かぶら骨といふ軟骨はさいの目に刻んで味噌漬か秋刀魚の腸(わた)に 漬けて置く、これは一週間程後でなくては駄目であらう。おばきと呼ばれる鰭は一度よくさらした上で酢味噌にする。

 鯨方の出初は正月二日である。その外にも時々祝競といふ事がある。そんな時に網勢子や羽指(ハザシまたハダシともいふ秦氏の訛音か銛突で銛突船の総官)どもに酒が出ると歌ふ歌といふのがある。——

        ○

     今宵夢見ためでたいものを
     座頭枕に子持を前に
     旦那杯さすと見た。
     たんに立つたる茜はちまき誰ぢや
     お礼ぢや覚右衛門様
     羽ざし座頭かけに来た 漕に来た。
     旦那百までわしや九十九まで
     ともに白髪のはえるまで

 豪宕な鯨方の唄とも思へぬやさしいのをもう一つ——

        ○

     恋をして磯辺をゆけば千鳥鳴く
     鳴け千鳥猶鳴け千鳥
     恋のやむ程なけ千鳥
     恋しくばたづねてござれ身が宿へ
     杉の一と本杉をたより
     わすれてもすぐ田の浜へ夜行くな
     すぐ田の浜は藻はらかき原背美所

 鯨をどりといふ鯨方のをどりがあるといふが見た事がないから紹介しかねる。

 それよりも鯨ゑびすの裔(すゑ)の太地覚右衛門の長者振りを地方の俗謡は次のやうに唄つてゐる。

     太地覚右衛門大金持よ
     せどで餅つく
     座敷で碁うつ
     沖のとなかで鯨うつ

 俗謡では最後をうつともつくとも唄つてゐる。鯨は打つとも突くともいふからどちらでも意味は通じる。しかし鯨方は鯨も他の魚同様掛けると云つたらしいのは前述の鯨方の唄でも知れよう。

 西鶴が熊野の捕鯨を取材にしたのは事実より四年後、俳句に熊野捕鯨の句があるのは元禄ではなくて天明に初まるらしい。俳人と小説家との社会の出来事に対する態度の一端がわかるやうでおもしろい。尤もこれを論究するためには俳句の方をもつとよく調べて見なければはつきりした事は中されない。

 現代の作家も現代社会の活事実を取扱ひたい。尤もこれは三面記事には書かしても小説では許されさうにもないから、小説はいつも社会相の何年位かあとばかり追ひかける結果になつてゐるらしい。さうしてわけても我国の現状では、「事実は小説よりも奇」である。

 

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)1月3日、4日の『都新聞』の文芸欄に2回連載

(入力 てつ@み熊野ねっと

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2015.8.29 UP



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