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埋もれた日本
――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (4/5)

和辻哲郎



 以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。

 しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に 湮滅いんめつさせられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話くらいにしか取り扱われないことになった。

 そういうことの行なわれていた間の日本人の思想的情況を知る材料として、私は『 甲陽軍鑑こうようぐんかん』に非常に興味を持つのである。

 この書は、それ自身の標榜するところによると、 武田信玄たけだしんげんの老臣高坂弾正信昌こうさかだんじょうのぶまさが、勝頼かつより長篠ながしの敗戦のあとで、若い主人のために書き綴ったということになっている。内容は、武田信玄の家法、信玄一代記、家臣の言行録、山本勘助伝など雑多であるが、書名から連想せられやすい軍法のことは付録として取り扱われている程度で、大体は道徳訓である。この書がもしその標榜する通りに成立したものであるならば、『多胡辰敬家訓』などと同じ古さのものとして取り扱われなくてはならないが、しかしそれに対する批判はすでに十八世紀の初め、宝永のころから行なわれているのであって、それによると著者は、江戸時代初期の軍学者小幡勘兵衛景憲おばたかんべえかげのり(一五七二―一六六三)であろうと推定されている。景憲の祖父小幡山城は、信玄の重臣で、『軍鑑』の著者に擬せられている高坂弾正とともに川中島海津城を守っていた。弾正の没した時には景憲はようやく七歳であったが、事によると弾正の面影をおぼろに記憶していたかもしれない。景憲が弾正に仮託してこの書を書いたことには何かそういう根拠があるであろう。武田氏は景憲十一歳の時にほろんだのであるが、景憲の父の世代に属する武田の遺臣のうちには家康いえやすの旗下についたものが多く、景憲はそれらの人たちからいろいろなことを聞いたであろう。書いた時期は慶長の末ごろ、十七世紀の初めと推定せられている。

 この書を通読すれば、おそらく誰の目にも性質の異なる部分が識別せられるであろうと思う。(一)は高坂弾正の立場で物を言っている部分である。(二)は信玄一代記と山本勘助伝とのからみ合わせで、勘助の子の禅僧が書き残した記録を材料としたであろうと思われる。(三)は 石清水いわしみず物語と呼ばれている部分で、信玄や老臣たちの語録である。これは古老の言い伝えによったものらしいが、非常におもしろい。(四)は軍法の巻で、何か古い記録を用いているであろう。(五)は公事くじの巻で、裁判の話を集録しているが、文章は(一)に似ている。(六)は将来軍記で、これも(一)に似ている。(五)と(六)を(一)に合併すれば、大体は四つの部分になる。

『甲陽軍鑑』がこれらの部分において語っていることは、非常に多種多様であるが、しかしそれを貫いて一つの道徳的理想が動いているように思われる。軍法の巻においてさえも、その主要な関心は、戦術や戦略の末ではなくしてその「もと」を探ることにあった。よき軍法の「もと」はよき采配である。よき采配のもとはよき法度である。よき法度のもとは正直・慈悲・智慧である。これが軍法の原理なのである。そういう着眼であるから、信玄の一代記にしても、戦国武士の言行録にしても、道徳的訓戒としての色彩が非常に濃い。

 ここにはその一例として、「命期の巻」(巻三―巻六)にある「我国をほろぼし我家をやぶる大将」の四類型をあげてみよう。

 第一は、ばかなる大将、鈍過ぎたる大将である。ここでばかというのは智能が足りないということではない。才能すぐれ、意志強く、武芸も人にまさっている、というような人でも、ばかなのがある。それはうぬぼれのある人である。「我することをば いずれをも能きこととばかり思ふ」人である。こういう人は下の者に智慧を盗まれる。というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。

 もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはならない。賢明な大将は、事のよしあしは自分で判断する。したがって「善きことをほめるは道理と思ひ、悪しきことをほめるは、我への馳走時の挨拶と心得る」。しかるに、人によると、悪しきことをもほめる者を軽薄者として怒るのがある。これはばかである。一家中に、主君に直言するごとき家来は、五人か三人くらいしかないであろう。大部分は軽薄をいうのが通例である。それを心得ていないで怒るというのは、ばかというほかはない。

 大将がばかであるゆえに起こってくる結果は、同じようなばか者を重用するということである。そのばか者がまた同じようなばか者に諸役を言いつける。したがって家中で「 はしり廻るほどの人」は、皆たわけがそろってしまう。そのたわけを家中の人が分別者利発人とほめる。ついに家中の十人の内九人までが軽薄なへつらい者になり、互いに利害相結んで、仲間ぼめと正直者の排除に努める。しかも大将は、うぬぼれのゆえに、この事態に気づかない。百人の中に四、五人の賢人があっても目にはつかない。いざという時には、この四、五人だけが役に立ち、平生忠義顔をしていた九十五人は影をかくしてしまう。家は滅亡のほかはないのである。

 第二は、利根すぎたる大将である。利害打算にはきわめて鋭敏であるが、賢でも剛でもない。「大略がさつなるをもつて、をごりやすうしてめりやすし」。好運の時には踏んぞりかえるが、不幸に逢うとしおれてしまう。口先では体裁のよいことをいうが、勘定高いゆえに無慈悲である。また見栄坊であって、何をしても他から非難されまいということが先に立つ。自分の独創を見せたがり、人まねと思われまいという用心にひきずられる。他をまねる場合でも、「人見せ善根」になってしまう。

 こういう大将は、 地下じげの分限者、町人などにうまく付けこまれる。やがて、家風が町人化し、口前くちまえのうまい、利をもって人々を味方につける人が、はばを利かしてくる。百人の内九十五人は町人形儀ぎょうぎになり、残り五人は、人々に悪く言われ、気違い扱いにされて、何事にも口が出せなくなる。五人のうち三人は、ついに町人形儀と妥協し、あと二人はその家を去る。こうしてこの家中は、家老より小者に至るまで、意地ぎたない、人を抜こうとするような気風になってしまう。

 第三は、臆病なる大将である。「心愚痴にして女に似たる故、人を そねみ、富める者を好み、へつらへるを愛し、物ごと無穿鑿むせんさくに、分別なく、無慈悲にして心至らねば、人を見しり給はず」というような、心のつよさを欠いた、道義的性格の弱い人物である。したがって彼は、義理にしたがって動くのではなく、外聞を本にして動く。たとえば、けちだと言われまいと思って知行ちぎょうを多く与える類である。強い大将ならば、必要あって物を蓄える時には、貪欲と言われようと、意地ぎたないと言われようと、頓着しない。知行は人物や忠功を見て与えるのであって、外聞とかかわりはない。

 外聞によって動くような臆病な大将の下では、軽佻な、腹のすわらぬ人物が 跋扈ばっこする。彼らは口先で人を言い負かそうとするような、性格の弱い、道義的背骨のない人物であって、おのれより優れたものを猜み、劣ったものを卑しめる。このそねみ卑しめとは、他に対する批判と厳密に区別されなくてはならない。法螺ほらふきをそしるとか、自慢話を言いけすとかというのは、正当な批判であって、そねみや卑しめではない。そねむのは優れた価値を引きおろすことであり、卑しめるのは人格に侮蔑を加えることであって、いずれも道義的には最も排斥さるべきことである。

 第四は、強すぎたる大将である。心たけく、機はしり、大略は弁舌も明らかに物をいい、智慧人にすぐれ、短気なることなく、静かに奥深く見えるのであるが、しかし何事についてもよわ見なることをきらう。この一つの欠点のゆえに、いろいろな破綻が生じてくるのである。家老は大将のこの性格をはばかって、その主張しようとする穏健な意見を、十分に筋を通して述べることができぬ。したがって不徹底、因循に見える。大将はそれを不満足に感ずる。そのすきにつけ込んで、野心のある侍が、大将の機に合うような強硬意見を持ち出すと、大将はただちに乗ってくる。野心家はますますそれをあおり立てて行く。その結果、大将は、智謀を軽んじ、武勇の士をことごとく失ってしまうことになる。なぜかと言えば、侍のうち、「剛強にして分別才覚ある男」は、上の部であるが二%にすぎず、「剛にして機のきいたる男」は、中の部であるが六%にすぎず、「武辺の手柄を望み、一道にすく男」は、下の部であっても一二%にすぎず、あと八〇%は「人並みの男」に過ぎないのであるが、強すぎた大将の下では、上中下の二〇%の武士を戦死させ、人並みの猿侍のみが残ることになるからである。こういう場合には、八〇%が残っていても、全滅と変わりはない。

 以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって理想の大将の類型が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。

 一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な自敬の念である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すればわが身の罰が当たるという言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、死を怖れぬ心構えが押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、おのれ自身において許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、男らしさの心構えが押し出されてくる。廉潔とうとぶのは、外聞のゆえではなくして、自敬の念のゆえである。こうして自敬の念に基づく心構えが、やがて武道とか男の道とかの主要な内容になってくると、争闘の技術としての武道の意味はむしろ「兵法」という言葉によって現わされるようになっている。そこで、武道、男の道、武士の道などと言われるものは、自敬の立場において、卑しさそのものを忌み貴さそのものを尚ぶ道徳である、と言い得られるようになる。これは尊卑を主とする道徳であり、したがって貴族主義的である。君子道徳と結びつき得る素地は、ここに十分に成立しているのである。

 この道徳の立場は、「敵を愛せよ」という代わりに「敵を敬せよ」という標語に現わし得られるかもしれない。「信玄家法」のなかに、敵の悪口いうべからずという一項がある。敵をののしることによって敵を憤激させれば、それだけ敵が強まることになって損である、という利害打算もあるいは含まれているのかもしれぬが、しかし根本にある考えは、尊敬し得ないようなものは敵とするに価しない、敵に取ったということは尊敬に価する証拠であるというにあるであろう。そういう心持ちを詳細に説明した個所もある。信玄自身は謙信に対する尊敬によってこのことを実証していたのであった。信玄の遺言といわれるものは、勝頼に対して、おれの死後謙信と和睦せよ、和睦ができたらば、謙信に対して頼むと一言言え、謙信はそう言ってよい人物であると教えている。真偽はとにかく、信玄はそういう人物と考えられていたのである。

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青空文庫より転載させていただきました。

(てつ@み熊野ねっと

2018.3.28 UP



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