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舟弁慶

『謡曲三百五十番』No.238

※平家討滅に功あった源義経であったが、頼朝に疎まれて西国に下ることを決める。義経は静御前と別れ、漁師が用意した船に弁慶とともに乗り、船出する。海上で平知盛の霊が現れて義経を海に沈めようとする。観世信光作

ここに熊野は登場しないが、弁慶は熊野別当の子と伝えられる。


季節:十一月
ワキ:武蔵坊弁慶
ワキツレ二人:義経の従者
子方:源義経
ワキツレ二人:義経の従者
シテ:静御前
後シテ:平知盛の幽霊

<底本:日本名著全集『謠曲三百五十番集』>

 

ワキ、ワキツレ二人次第「今日思ひ立つ旅衣。/\帰洛をいつと定めん。

ワキ詞「かやうに候ふ者は。 西塔の傍に住居する武蔵坊弁慶にて候。 さても我が君判官殿は。 頼朝の御代官として平家を亡ぼし給ひ。 御兄弟の御中日月の如く御座候ふべきを。 ゆひかひなき者の讒言により。御中たがはれ候ふ事。 かへす%\も口惜しき次第にて候。 然れども我が君親兄の礼を重んじ給ひ。 一まづ都を御開きあつて。 西国の方へ御下向あり。 御身に過なき通りを御歎きあるべき為。今日夜をこめ淀より御船に召され。 津の国尼が崎大物の浦へと急ぎ候。

ワキ、ワキツレ二人サシ「頃は文治の初めつかた。 頼朝義経不会の由。すでに落居し力なく。

子方「判官都ををち近の。道狭くならぬ其さきに。 西国の方へと志し。

ワキ、ワキツレ二人「まだ夜深くも雲居の月。出づるも惜しき都の名残。 一年平家追討の。都出には引きかへて。 唯十余人。すご/\と。 さも疎からぬ友舟の。

下歌「上りくだるや雲水の身は定めなき習かな。

上歌「世の中の。 人は何とも石清水。/\。清み濁るをば。 神ぞ知るらんと。高き御影を伏し拝み。 行けば程なく旅心。 潮も波も共に引く大物の浦に着きにけり大物の浦に着きにけり。

ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これははや大物の浦に御着にて候。某存知の者の候ふ間。 御宿の事を申しつけうずるにて候。 いかに此屋の主の渡り候ふか。

狂言「誰にて御入り候ふぞ。ワキ「いや武蔵にて候。

狂言「さて只今は何の為の御いで候ふぞ。

ワキ「さん候我が君をこれまで御供申して候。 御宿を申し候へ。

狂言「さらば奧の間へ御通り候へ。 御用心の事は御心安く思しめされ候へ。

ワキ「如何に申し上げ候。 恐れ多き申し事にて候へども。 正しく静は御供と見え申して候。 今の折ふし何とやらん似合はぬ様に御座候へば。 あつぱれこれより御かへしあれかしと存じ候。

子方「ともかくも弁慶はからひ候へ。

ワキ「畏つて候。 さらば静の御宿へまゐりて申し候ふべし。

ワキ詞「いかに此屋の内に静の渡り候ふか。 君よりの御使に武蔵が参じて候。

シテ詞「武蔵殿とはあら思ひよらずや。 何のための御使にて候ふぞ。

ワキ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。我が君の御諚には。 こ。れまでの御参かへす%\も神妙に思しめし候。去りながら。 唯今は何とやらん似合はぬやうに御座候へば。 これより都へ御帰あれとの御事にて候。

シテ「これ。 は思ひもよらぬ仰かな。 いづく。 までも御供とこそ思ひしに。 頼。 みても頼みなきは人の心なり。 。 あら何ともなや候。

ワキ「扨御返。 事をば何と申し候ふべき。 。

シテ「自ら御供申し。 君の御大事になり候はゞ留まり候ふべし。ワキ「あら事々しや候。 たゞ御とまり有るが肝要にて候。

シテ「よく/\物を案ずるに。 これは武蔵殿の御はからひと思ひ候ふ程に。 わらは参り直に御返事を申し候ふべし。

ワキ「それはともかくもにて候。さらば御参り候へ。

ワキ詞「如何に申し上げ候。 静の御参にて候。

子方「いかに静。 此度思はずも落人となり落ち下る所に。是まで遥々来る志。 かへす%\も神妙なりさりながら。 はる。 ばるの波涛をしのぎ下らん事然るべからず。先此度は都に上り。時節を待ち候へ。 。

シテ「さては誠に我が君の御諚にて候ふぞや。 よしなき武蔵殿を恨み申しつる事の恥かしさよ。返す%\も面目なうこそ候。 へ。

ワキ「いや/\これは苦しからず候。 唯人口を思しめすなり。 御心変るとな思しめしそと。涙を流し申しけり。

シテ「いやとにかくに数ならぬ。 身には恨もなけれども。これは舟路の門出なるに。

地歌「浪風も。静を留め給ふかと。/\。 涙を流し木綿四手の。神かけて変らじと。 契りし事も定なや。げにや別より。 まさりて惜しき命かな。 君に二たび逢はんとぞ思ふ行末。

子方詞「いかに弁慶。静に酒をすゝめ候へ。

ワキ「畏つて候。げに/\これは御門出の。行末千代ぞと菊の盃。 静にこそすゝめけれ。

シテ「妾は君の御別。 やる方なさにかきくれて。涙にむせぶばかりなり。 。

ワキ詞「いや/\これは苦しからぬ、旅の舟路の門出の和歌。唯一さしと勧むれば。

シテ「其時静は立ち上り。 時の調子を取りあへず。渡口の郵船は。 風静まつて出づ。

地「波頭の謫所は。日晴れて見ゆ。

ワキ詞「これに烏帽子の候召され候へ。物着。

シテ「立ち舞ふべくもあらぬ身の。

地「袖打ち振るも。恥かしや。

イロエ「。

シテサシ「伝へ聞く陶朱公は勾踐をともなひ。

地「会稽山にこもりゐて。 種々の智略をめぐらし。終に呉王を亡ぼして。 勾踐の本意を。達すとかや。 クセ「しかるに勾踐は二度代を取り会稽の恥を雪ぎしも。 陶朱攻を成すとかや。されば越の臣下にて。 政を身に任せ。功名富み貴く。 心の如くなるべきを。 功成り名遂げて身退くは天の道と心得て。小船に棹さして五湖の。 煙涛をたのしむ。

シテ「かゝる例も有明の。 地「月の都をふりすてゝ。

西海の波涛に赴き御身の科のなきよしを。 歎き給はゞ頼朝も。終にはなびく青柳の。 枝を連ぬる御契。などかは朽ちし果つべき。

地「唯たのめ。中ノ舞「。 シテワカ「唯頼め。しめぢが原の。さしも草。 地「我世の中に。あらん限りは。

シテ「かく尊詠の。偽なくは。 地「かく尊詠の偽なくは。やがて御代に出舟の。船子ども。 はや纜をとく/\と。/\。 勧め申せば判官も。旅の宿を出で給へば。

シテ「静は泣く/\。

地「烏帽子直垂ぬぎ捨てゝ。 涙にむせぶ御別。 見る目もあはれなりけり/\。

中入間「。

ワキ詞「静の心中察し申して候。 やがて御舟を出さうずるにて候。

ワキツレ「いかに申し候。

ワキ「何事にて候ふぞ。

ワキツレ「君よりの御諚には。今日は浪風荒く候ふ程に。 御逗留と仰せいだされて候。

ワキ「何と御逗留と候ふや。

ワキツレ「さん候。

ワキ「これは推量申すに。静に名残を御惜あつて。 御逗留と存じ候。先御思案有つて御覧候へ。 今此御身にてかやうの事は。 御運も尽きたると存じ候。 其上一年渡辺福島を出でし時は。以ての外の大風なりしに。 君御舟を出し。平家を亡ぼし給ひし事。 今以て同じ事ぞかし。急ぎ御舟を出すべし。

ワキツレ「げに/\これは理なり。 いづくも敵と夕浪の。

ワキ「立ち騒ぎつゝ舟子ども。

地「えいや/\と夕汐に。つれて舟をぞ。 出しける。

狂言シカ%\「。

ワキ詞「あら笑止や風が変つて候。 あの武庫山颪弓絃羽が嶽より吹きおろす嵐に。 此御舟の陸地に着くべき様もなし。 皆々心中に御祈念候へ。

ワキツレ「いかに武蔵殿此御舟にはあやかしが憑いて候。

ワキ「ああしばらく。 さやうの事をば船中にては申さぬ事にて候。シカ%\「。 あら不思議や海上を見れば。西国にて亡びし平家の一門。 おの/\浮み出でたるぞや。かゝる。

詞「時節を伺ひて。恨をなすも理なり。

子方「いかに弁慶。

ワキ「御前に候。

判官「今更驚くべからず。たとひ悪霊恨をなすとも。 そも何事の有るべきぞ。 悪逆無道の其積り。神明仏陀の冥感に背き。 天命に沈みし平氏の一類。

地「主上を始め奉り一門の月卿雲霞の如く。 波に浮びて見えたるぞや。

後シテ早笛「抑これは。桓武天皇九代の後胤。 平の知盛。幽霊なり。

詞「あら珍らしやいかに義経。思ひもよらぬ浦浪の。

地「声をしるべに出舟の。/\。

シテ「知盛が沈みし其有様に。

地「又義経をも。 海に沈めんと。夕浪に浮べる長刀執り直し。 巴浪の紋あたりを払ひ。 潮を蹴立て悪風を吹きかけ。眼もくらみ。心もみだれて。 前後を忘ずるばかりなり。

舞働「。

子方「その時義経少しもさわがず。

地「その時義経少しもさわがず。打物抜き持ち。うつゝの人に。 向ふが如く。言葉をかはし。戦ひ給へば。 弁慶おしへだて打物業にて。叶ふまじと。 数珠さら/\と押しもんで。東方降三世。 南方軍荼利夜叉。西方大威徳。 北方金剛夜叉明王。中央大聖。 不動明王の索にかけて。祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば。 弁慶舟子に力を合せ。 御船を漕ぎのけ汀によすればなほ怨霊は。慕ひ来るを。 追つぱらひ祈りのけ又引く汐に。 ゆられ流れ。また引く汐に。ゆられながれて。 跡白波とぞ。なりにける

** JALLC TANOMOSHI project No.1 ** ** 謡曲三百五十番集入力 **より
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2019.7.18 UP

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