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弁慶の出生地

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

弁慶像

武蔵坊弁慶は、義経の幕僚だったに過ぎないが、後世にはなかなかの人気もので、五条の橋の七ツ道具が、端午の節句の武者人形となり、国定教科書の挿画となり、安宅の関の勧進帳が、歌舞伎の十八番となり長唄の秘曲となり、衣川の立往生は武人の典型と伝えられる。同僚で忠烈をうたわるる佐藤兄弟をはじめ、戦国の武士の誰れよりも、弁慶の名はよく知られて居り、三井寺の鐘など、弁慶の遺蹟というものも多い。

しかし、それほど花々しく言い囃されるに拘らず、詮索を事とし紙魚に甘んずるという所請歴史家、考証家たちからは

イ、弁慶は実在の人物でない。物語作者の仮作に過ぎない。
ロ、弁慶は正しく実在の人物である。

との争いがまだ何れとも決定しない。それからロの説を執る人たちはまた

ハ、弁慶の出生地は出雲である。
ニ、紀州の田辺である。
ホ、出雲でなく紀州でもない。その以外の地(各地に出生伝説地が多い)である。

といろいろの説があって、これがまた今に帰着するところが無い。それから容貌、その他については

ヘ、弁慶は容貌魁偉、赤い凄い顔した豪傑流の人だった、而して武勇一遍の人だった。戦争には最前線に立って闘う荒武者であった。
ト、然らず弁慶は美貌の僧であり、惟幕の謀将であり、文事にも長じ武事のみの人でなかった。

という両説がある。人形や芝居や所作事なら幾つに分れてもよいが、一人物の説がコンなに多岐ではたまらない。果していずれに従うてよいのだろうか。

まず出生地からお喋べりする。出雲に弁慶出生の伝説地あることは、京の豪商で遊歴を事とし、生涯を風雅に過して寛政に没した百井塘雨が『笈挨随筆』にかなり詳しく書いている。同地方では今も盛んに主張されているらしく、島根県史などもこれに触れているだらうと思うが、私はまだそれを見る機会がないから何とも言えない。

同県出身の小畑豊之助氏(陸軍中将)は昭和五年七月十八日東京日比谷山水樓の同人談話会で「私のは史家の相手にせぬ俗説であるかも知れぬ」という前提で弁慶の出雲出生なることを説いている。(雑誌明るい家一五六号)。岡田建文氏は昭和六年五月の雑誌郷土研究(五巻三号)で同じく出雲地方の弁慶出生の説話を紹介されておる。小畑氏のは軽い気持の言わば食後の雑談といった手軽さであり、岡田氏のは議論や主張を避けられて説話や資料を拾われたもので、殊に弁慶願状の写を示されたのは難有かった。私は岡田氏のに対して紀州田辺に於ける弁慶の説を報じた(郷土研究五ノ七)ことだった。

出雲説の要点は斯様である。弁慶は延暦寺の荘園であった出雲国長海荘(現八束郡本庄村字長見)の生れである。弁慶は幼にして長海荘にある延暦寺末の枕木山花蔵寺に入り次いで鰐淵寺に移って修業し、義経に従い衣川で戦死した。長海には弁慶屋敷跡と弁慶島があり、鰐淵寺には遺物もある。弁慶は熊野の生れというが、その熊野は紀州でなく出雲の熊野(八束郡熊野村)である。紀州の熊野神社は崇神天皇の御宇に出雲から勧請したのであるが、歴代の御崇敬が篤く終に全国屈指の霊場となり、本家の出雲の熊野は反って忘れられ、弁慶が熊野生れというのも、出雲の熊野と気付かず、紀州の熊野と早合点するようになったのであるというのだ。

弁慶の出生地というのは何でも全国に三十何ヶ所とかあるという。しかしそのうちで有力とするのは以上の出雲説と、わが紀州の田辺説である。田辺説の代表は紀伊続風土記である。

同書田辺城下の弁慶松、弁慶池の項に曰く松は袋町にあり池は片町にあり、土人伝えいう弁慶ここにて産る故に弁慶松弁慶池の名ありという、又闘鶏権現本願の家蔵に弁慶の産湯を沸かししという鑵子(かんす)あり、今関東より熊野に詣する者弁慶の旧蹟と称して必これを見る、その夜この城下に宿して餅を掲くを例とす、号けて弁慶の力餅という、これ等の事その証跡定かならざれども相伝えて古くなし来る事といえり、按ずるに弁慶の事世の普く知る所なれどもその産るる所古書に記さず、所生亦異説ありて一様ならず

とてその名の吾妻鑑に見えたること、義経記に熊野別当弁正の嫡子とせること、寛文記所載文明十三年の文書に別当弁心の子とあるを挙げた後

然れども別当次第記及目良氏系図等を考うるに並に弁心・弁正の名なし、或書に弁正一名湛曹紀州田辺鶏合権現別当とあり、湛曹は湛増なるべし、然れども古書湛増の事を載するもの弁慶を子の数に入るものなし、後世の書或は出雲国の産とし或は伊勢度会氏の裔とす、何れも的証なし、かくの如くその説区々にて何れを正説と定めがたけれども田辺の地古く土人の口碑に遺りて所々符合の事多ければ田辺の地に産れて本宮にて七歳頃まで育ち後上洛して叡山に登りしなるべし

とある。袋町は明治初年福路町と文字を改む。弁慶松は天正十八年杉若越後守(羽柴秀長の家臣桑山修理亮重晴の部下で田辺地方を鎮治した人)が田辺の上野山に城を築く時、伐って台所の虹梁としたが周囲五抱えあったという。後ち田辺藩主安藤氏が植え継ぎ三抱えばかりの大きさになっていた(後出の郷導記の文参照)が正徳四年八月八日の大風に倒れ、同年九月十六日更に植えついたのが現存の松で、周一丈二尺、高さ四五十尺に及び翠蓋天を厳うて繁茂する。弁慶池は元田辺城の外濠に接してあり今はその濠理め立てられて田辺第一小学校構内となったが弁慶井として井戸となり居る。元禄に成った紀南郷導記に

弁慶松と云うて大きさ三抱計の大樹あり、その本木は枯たりしを中頃植えてその印とすといえり、同側に弁慶が産湯を引し井なりとて薮の内に清水あるなり

とある。元禄に既に弁慶の産地だという説ありしことがこれで知れる。否、天正に既にその説ありしを推せられる。弁慶松のあるところを小名清水というのは側の弁慶池に清水が湛えていたからであろう。それから産湯を沸かしたという鑵子は今は田辺の闘鶏神社に蔵す、関東から熊野へ参詣した人々が田辺で弁慶松の葉をとってみやげとし山祝いとて餅を搗くことは明治三十年前後まで行われた。(熊野三山と奥羽参照)

弁慶産湯の釜

出雲の八束郡本庄村長海には弁慶森、弁慶邸、同産湯の井、同鍛冶場、弁慶堂あり。弁慶森にはもと弁吉女霊社という小祠あったが明治十二年三月村社長見神社境内に移されている。その長見社に蔵する弁慶状(願状写)は弁慶の願状でないことは文句で知れるが、なかなか面自い。それには弁慶の母が最後に臨み弁慶に向って「汝よく聞け、我はこれ紀伊国田那部(タナベ)の誕象の子なり、然るに誕象子無きによって熊野権現に祈誓を申し自をもうけ給う、誕生大治三年戌申五月十五日に生ず則ち弁吉とつけ給う云々」とて、殊の外の悪女で夫となる人がないので、出雲の国の結の神に祈誓し久安三年六月郷里を出で、出雲に来り、後ち山伏—天狗と想われるものに逢うて懐胎し弁慶を生んだと物語っている。即ちこれによると出雲の方でも、弁慶を出雲生れとしているが、母親の弁吉を紀州田辺の誕象の子としているので、紀州田辺とは繋りはあるものとしているのだ。倭漢才図会(巻七八出雲国部)には鰐淵寺在枕木山、相伝武藏坊弁慶学生之地也。弁慶(中略)熊野住 侶弁正一男也、幼時在雲播、稍長学法於叡山(中略)按弁慶之父弁正、一名湛曹、紀州田辺鶏闘権現別当也とある。しかしこれは後世の説だから尚お考うべしだ。ここにはハ、ニ、ホの三説のうちホの説はとりとめたところがないから、あっさりオミットして置いて、さてハ、ニの両説に対してもどちらとも扇を揚げない。ただ田辺は弁慶出生の地として有力であることだけを重ねて申して置く。

南浦文集の下巻、弁閣問答記に西塔昔者有三法師、名武藏坊弁慶、其色真黒、其形傾且整、力以抜山、気以蓋世云々とあって、ちょうど弁慶の画や人形の通りだが、紀州でも出雲でも弁慶は美僧であり謀将であったと伝えている。へ、トの両説、いづれを是とすべきかは知らぬが、美僧との説は面白いと思う。最後にいよいよイ、ロの説即ち実在の入か仮作の名かは大問題だが、江戸時代の博識高田与清翁は松屋棟梁集の答赤松知則書のうちにかなり詳しく書いているから重復を厭うて省略し、与清が伴蒿蹊の閑田耕筆に『熊野別当弁真が子というはその證なし、吾妻鑑にも弁慶が事かつて見えず、水戸大日本史にもこの人の伝は見えず』など記せるに対し『与清按にこの説ひがごとなり』とし二十余の文献をあげ「うきたることにあらず」と断じている。それで沢山であらう。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.2.9 UP




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