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田辺の柱松

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

紀州田辺では盂蘭盆の十五日の夜、下片町浦の漁民によりて柱松というが行われる。柱松は高さ五十尺位の木の柱を立て、頂上に長さ七八尺周十七八尺位の卵形の球をつくり、その中に主として枯松葉を容れたるを揚げ、その夜九時頃より漁夫の若者たち、肥松(老松の根部、脂肪多く燃えやすきもの)を長さ一尺五六寸に小さく割れるものの一片に火を点け、頂上の球形をめがけて投げあぐ、これは数十人順次に行うのである。肥松の火、球形に達して止まれば結松葉に火つきて燃え出づ。既に火つけば肥松を投ずるを止め、頂上の球形の燃ゆるを見る。肥松をほり上げるのが既に美観で、しかも一種の競技たる感あり、火を点じ得たものは誉れとする風あり、既に火つけば燃え尽すに一時間余を要し見物群集する、海難で死んだ者の霊を慰むるためであるという。

以前は下片町の成の鼻の空地で行われ来ったが、付近に家多く建ち連ねて危険となったので、大正八九年頃から扇ヶ浜(大浜)の旧台場下の海岸で行うているが、田辺ではこの夜九時頃から十二時ごろまでの間、各家々では海岸に精霊を送り波打際で火を焚くあり、田辺の行事としては有名なものの一つだ。(以上は拙著牟婁口碑集にも記した)。この行事は漁浦の行事とて記録などなく、いつ頃から開始されたのかは全く知れぬ。しかし片町浦の旧称網屋浦の名は元和に既に見えているが、小さいながら漁浦らしくなったのはそれから遥かに後であるから、恐らく柱松は徳川中期に始めたものかと推測される。伊達自得居士の『余身帰』に

浦辺には柱松とて高き柱をたてて端に籠をむすびつけ松の葉などを盛たり、さて漁戸の若人ら松に火をつけて投げあぐるに柱高ければ多くは落つ。ついには投げ入れてもえあがるをもて期とす。こは海にて死したる者の追福なりとぞ。柱松てふ名のおかしく

 荒海にくだけし船の柱松、てらすもあはれ跡の自浪

とある。居士は明治の名外相陸奥宗光伯の厳父で、紀藩顕要の地位にあったが、水野忠央の藩政改革の犠牲となり、嘉永五年から八年間田辺に幽囚せられ、明治に居士禅を唱えた人だ、田辺で幽囚の場所から片町浦が近かったので、親しく柱松を見たと思われる。

地方の俳人のうちには、近頃この柱松を季題として句を試むるものがおりおりあるのを見受く。

 柱松盛んに火屑落しけり    河内みのる 昭和七、『紀伊新報』
 柱松熊野荒男は火を投げる   高田都軒  同
 柱松漁夫のどら声わめくなり  久保守   同
 柱松一番火の手いま揚る    大橋天打浪 同、『牟婁』

などその一例である。何でも柱松を秋の季題としたい希望があるらしく、註をつけて各方面へ投句したりしているようだが、いはゆる俳句の大家先生達にはまだ注意されぬようで、改造社の俳諧歳事記(昭和八年版)にもとりいれられていない。しかしこれは俳人には物識りのないのが通例で、中央の大家先生の知らぬは無論、地方の俳人も柱松は田辺にのみある行事で、他に例のないものだという土地自慢の説に囚われていることは、以上の例句を見てもすぐ分る。言わば知らぬは双方お互いさまである。

しかし、京都嵯峨の清涼寺では二月十五日に柱松の行事がある。まず釈迦堂の前へ松の枯枝を藤蔓で結えた大松明を三基立てる、高さは二丈五尺位である。この三基のうち両端が早稲と中稲、中が晩稲と定められ、その燃え方によってその年の米作を予想する。時刻がくると嵯峨村十二区から持ち出した一番から十二番までの古風な高張が並び、松明へ火の燃え移った瞬間その高張の高低によって、その年十二月の米相場の高低を占う。やがて一束の枯松へ火を点じ三基の松明へ移し凄まじい音でもえあがる、群集はやんやと囃し釈迦念仏を唱える。燃えつくすのは僅かの間であるが、山門伽藍が焔と火粉に相映じて壮観であるという。京都のことといえば箸の倒れたことでも歳時記にのるのに、この清涼寺の柱松を逸しているらしいのも妙だ。(改造社の歳事記の春の部は、この項を草する時まだ出版されていない、それにはどう扱うているか見たいと思うている)

『辞林』には「柱拒火、嵯峨の清涼寺の釈迦堂の前にて夜中行う儀式、云々』とある。しかしこの説明の不完全なことは後に書くことで分る。同書には柱松の項は欠いている。『言泉』には「柱松 下方を地中に掘り埋めて焚くたいまつ、たてあかし、たちあかし」とあって栄花物語に「日の暮るる程に所々の柱松又手ごとにともしたる火どもなどの、昼とも見ゆるに」とあるを引いている。 薬花物語の作者は安藤為業、赤染衛門の両説あり不詳だという、しかし安藤為章に従えば堀河院以後の人の作とし、何れにしても平安朝のころのものらしい。それに既に柱松の語があるのだから、その頃すでに存したことは明かであり、また日蓮上人が文永元年大学三郎夫人与えたいわゆる月水御書のなかに「しゃ火を日月にそえて』とあるは柱松のことであるときく。しかし以上では柱松とはたてあかしのことをいうので、一つの行事のこととは申されない。実際、一つの行事となったのはそれから後のことらしい。

柳田国男氏の柱松考(大正四年三月、郷土研究三巻一号)はこの問題に光明を投げている。柱松という語が最も普通だった證として、長門本平家物語巻三成親流罪の条に柱松因縁事と題する一くさりがあって、摂津柱松駅の由来を説いていることをあげ、七月長竿の頭に火を点じて立てる風習が柱松という名で足利時代に行われていたことを推測せらるるとし、かつ柱松という地名が、和泉、伊勢、下総、下野、丹後、但馬、備中、出雲、土佐、筑前など諸州にわたり十数所を数えるのは、この風習がある時代に一般的であったことと、柱松を行う地点が各地方でほぼ一定していたことを推測し得らるといい、更に周防風土記、長門風土記、共古日録、西讃府志、甲斐国志、 風俗画報、三国名勝図会などの記事を引いて、長門、周防、播磨、甲斐、丹波、硫黄ヶ嶋などに柱松、または柱松に似た火揚げの行事あることなどに及び、同氏一流の引證該博ぶりを示している。而して柳田氏は柱松考から十九年日の昭和八年十一月、年中行事調査標目(旅と伝説六年十一月号、第八回の分)中に発表した盆行事のうちの「迎え火と送り火」の項にムカヘダヒ、ムカへダイマツ、タヒトボシ、ヒヤクハチタヒ、カズアカシ、センコヤマ、マンドロヒ、マンドウクヤウ、ヂマンドウ、カバビ、カバセン、ボンノリ、オクリダイマツなどいう各地の迎え火、途り火の例をあげた後、奈良県南部のオクリタヒマツ、播州揖保郡のヒマゲ、丹波地方のアゲマツ、紀州田辺と山口県所々および硫黄嶋のハシラマツ、甲州のハシラタイマツ、加賀のシヤウリヤウビなど名は異なるが柱松と同じ行事のあることをあげ、盆行事としての柱松は、正月の左義長に対する行事であったと言われている。又、中山太郎氏は柱松は修験道の作法である(民俗学辞典)というていられる。とにかくここには柱松は最初はたちあかし、たてあかしのことをいい後ち盆行事となり一般に普通に行われた時代があり、今も名は異なるがこれを行うところが所々にあり、紀州田辺もそのうちの一所であること、ならびに柱松といえば盆行事のことを指し、嵯峨の清涼寺のは年占の一種で例外であると、承知せねばならぬ訳である。

私の自説というものが殆んどなく、先輩の論考を取攻ぐに過ぎぬことは、実は欲せぬところでありすすまぬ事だが、以上は地方人を説くためのお喋べりに過ぎぬ。これだけ申せば、柱松を俳句の季題に加えぬ点で、俳句の大家などいう輩が、常に新季題の詮索などいうているが、その程度がどんなものだか知るべく、また南紀地方の俳人たちが紀州田辺のみの行事として、柱松を句にしたり季題に加えようとするのが無理であることも分るであらう。(昭和八、一一、二四)

【追記】その後、改造社の”俳諧歳時記”春の部を見ると、嵯峨清涼寺の柱炬は季題に加わっている。しかし柱松としてはドノ季題にも加わっていない。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.2.10 UP




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