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端唄「紀伊の国」の作者

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

 ◇端唄の「紀伊の国」の作者に就いては、田辺の南方熊楠先生が新宮の碩学小野芳彦翁と作年数回書翰を往復し調査、質疑、研究を重ねられた上、雑誌『民俗学』の昨年七月、八月、十月号へ前後三回に亘って発表された。それでスッカリ明らかになったが一般にはまだそれを知らぬが多い。

 ◇「紀伊の国」は新宮藩の江戸詰家老関匡(明治二十九年新宮に没す、全龍寺に葬る)、次弟の馬術師範梶川馬六、末弟御用人玉松千年人(明治四十三年没、八十八歳)の三兄弟のうち関、玉松の両人が作り第二世川上不白が閲正したものだという。千年人は新宮藩主水野忠央公の愛妾で後ちの藩主大炊頭忠幹公の生母である多摩子、後ち玉の井の方と呼ばれた方が、生まれは武州か上州かの農家で、実家というのがあるか無きかであったからか、忠幹公が生まれてから、玉の井の方のために玉松氏という一家を起こし、千年人をしてその家に入らしめたものだという。さて関氏の兄弟はいずれも江戸育ちであり、遊芸に優れ、殊に声がよくて唄がうまく、為めに兄弟三人で、江戸の遊廓などを唄を流し歩くを得意としたものだという。

 ◇時は安政の末、十一代の新宮藩主忠央公は、井伊掃部頭等と力を合わせ、水戸、薩摩、加賀候等が将軍候補に一橋慶喜を推しているを向うに廻し、紀州侯家茂を推して遂に勝ち、家茂を十四代将軍たらしめたが、忠央は家茂の伝であった関係もあり十四代将軍の下に羽翼を延ばすべく、紀藩の家老から直参となり、十万石以上の大名に取り立てられるだらうとの評判あり、声威隆々だったから、藩士の鼻息もエラかったに相違ない。しかも忠央は熊野宣伝に努め、中元歳暮の贈品にも熊野木炭などを用い熊野木炭はこれによって江戸に知られたという位である。この際、関玉松など江戸常府であり、粋人であると来ているから唄で熊野の宣伝を思いつくのは当然すぎるほどだ。

 ◇「紀伊の国は音無川の水上に立たせ給うは船玉山。」この音無川は広義には熊野川(新宮川)を指し、船玉山を十津川の玉置山だとするが、狭義には本宮のささやき橋の所から熊野川に合流する音無川であるとし、その川上の三里村三越の玉瀧山にある船玉神社が立たせ給う「船玉山」であるとしている。この船玉神社は紀伊続風土記にも記載がないから、「紀伊の国」の端唄が流行しだしてから、誰れかがお祀りしたものであろうとの推測だ。何にしても関、玉松の粋人兄弟は名もない船玉山を唄の初めに引っ張り出しそして「さて東国に至りては」と一足飛びに江戸の有名なお稲荷さんの名を並べ音無川の水上の船玉山が如何にも有名なるかの如く吹張し、当時の新宮藩の意気を示し、兼ねて熊野の宣伝をやったものらしい。

 ◇この端唄が大いに流行り、今日でも唄われているが、意気も作者も忘れられて終っていたのを、先生と翁によって世の中に出された訳だ。それにしても忠央公は間もなく政変で失脚し新宮に蟄居して寂しく逝ったがもし十四代将軍の擁立が文化文政の頃ででもあったら彼れは柳澤美濃守位の大芝居を打っていたかも知れぬ。唯、風雲急なる幕末に際しては、ちと時代が違っていた。

(昭和六年九月、紀南の温泉)

【追記】紀伊の国の作曲者は、玉置縫殿(別項熊野三山貸付所参照)の愛妾おとみ女であると、昭和八年九月南方先生から御示教下さった。おとみさんは和歌山で芸妓たり音曲にくわしかったという。なお昭和七年八月二十一日大阪朝日の紀伊版には小野芳彦翁の調査を基礎として、川原慶吉氏が研究の結果関、玉松両氏の合作と分ったと報ぜられていたが、それはナニかの誤聞であらう。小野翁(昭和七年没)の生前、すでに南方先生との調査研究でスッカリ明らかになって居たのである。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.21 UP




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