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海上漂流木の話

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

一、天授院のこと  文化七年の夏、日高郡の南部の海浜に一つの大きな木材が漂着した。その頃何人もかつて見ぬもので、ただ異邦の大木として驚嘆するのみ。長く海中に漂うていたと見え、□の痕だらけになっていて、ものの用に立たぬとしたのを、当時田辺海蔵寺の住僧東睦和尚が官に請うて貰い受け、それから足懸け七年間を費して、この漂流木ただ一本を用いて、寺内に天授院というを建築した。桁行七間、梁行三間半、八畳二室、十畳、十二畳、四畳、二畳各一室、その他浴室、厠など設けたが、柱、敷居、天井、□板から額縁、刀架、手巾懸、障子類まで悉くこの一本の木で作り、他の木材は毫も交えなかった。東睦は豊後の人、島本風泉の高弟で□刻の名人であり、また仮山を築くに巧みで鎌倉建長寺の庭園は東睦の築く所だという。風泉没後、その未亡人の問に答えて□刻の意見を報じた『□庵書翰」は今も印人の珍重する所だ。左様した雅人であったから天授院の建築を思い付いたのであろう。当時は非常に珍らしいものとされ、熊野来遊の客は必らず訪うて一見を請い一木寺という名さえついた。西国三十三所名所図会にもこれを掲載している。惜しいことには嘉永七年冬(安政の改元)の大震火災に焼失した。この漂流材が何国の本であったかは当時知りたかったものらしく、わざわざ長崎福済寺主を頼み外人に木片を示して鑑定を請うたが、支那人は老杉樹といい、蘭人は宇無加婦木といい、定め難かったという。

ニ、龍泉寺の書院 田辺の龍泉寺の書院も漂流木で建てたもので、これは現存するが、記録、口碑共に伝わらず、何時ごろのものか知れぬが恐らく文化、文政以後の建築であろうという。相当大きな木材だったらしく□のあとや貝殻の附着した跡は見られる。これは恐らくチーク材であろうとの話だ。

三、稲村亭のこと  申本町の神田氏は土地の旧家で同姓の家が多いが、その総本家の神田清兵衛家に「稲村亭」というがある。明治初年の頃、程遠からぬ有田村の稲村の海岸に長さ二間余、切口一間余もある大きな木材が大浪に打ち寄せられて漂着した。表面は虫に蝕まれ水にさらけて何十年間漂流していたものとも分らぬ程だったが、当時は南海の辺陬(へんすう)ではあり、何国の何という木やら分らず驚異するばかりであったが、噂は伝わって買手が沢山ついたが、稲村の漁夫は、それより十数年前大飢饉(多分嘉永五年の飢饉)の折、神田家から救恤(きゅうじゅつ)を受けた恩に酬ゆべく、買手を斥けてこの大木材を神田家へ贈った。神田家でこの木を挽き割って見ると、内部は美しい材だったので、大風呂を沸かし材木を煮て塩出しを行い、この一木のみで建てたのが稲村亭で、十畳、八畳の二室は柱、梁から換、障子の類まで悉くその一木から成っている。初め紫枋樹と鑑定したものもあり、印度から流れて来たと言ったものもあるが、アメリカのレット、ウッドだという鑑定もある。

四、魚群のついた大木  田辺の江川、片町、磯間浦等の漁夫いう、紀州沖へ二十年目位に廻って来る大きな漂流木がある。長さ何十間もあり幅も二間ほどあろう。既に腐触して水面に現われず、ただ木の周囲に白波が立つのでそれと知るのであるが、木には貝類や海藻が一面に附著している。この木が来るとそれに魚類が群集して着いているので漁が多い。大正十二年の秋、この木が紀州沖に現われたと聞く。何でも潮流に従い太平洋をグルグル流れ廻っておるらしい。また田辺の高川龍吉氏言う、漁夫の話によると紀州の沖合へ出ると流出木が多く時としては何十本も群をなして居ることがあると。

五、丸本船の漂着  田辺町役場に南洋土人の用ゆる丸木船が一隻ある。明治の末年、田辺沖に漂流していたのを同町江川浦の漁船が発見し拾うて来たものである。

(昭和五年二月、雜誌河と海一巻二号)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.23 UP




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