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熊野路

佐藤春夫


【炭焼、松煙のかまど賑ふ】

 木材の産地として知られた熊野はまた地方の雑木を利用して有名な炭の産地である。さうして樵者と炭焼とは深山の懐に抱かれた兄弟ともいふべき山中の隣同士である。

けぶり立つ峯のすみやき宿(やどり)かせ夕日のおくに猿(ましら)なくなり
                               加納諸平

 熊野炭は所請白炭といふ堅い木炭で、尽きるに従つて灰を被つて白く見ゆるものである。最上の品は馬目樫(ウマベ或はマべ又はバべなど呼ぶ)や郡内樫で焼いた備長と呼ばれる物である。備長(ビン)の尤なるものが丸ビン、角ビン(或は半月)がこれに次ぐ。劣等の品をアサと呼び、椎桜櫨芋木(東京でいふかくれ蓑)等のアサ木(雑木)を焼いたものである。

新宮藩主第十世で歴代中の英主として知られた水野土佐守忠央朝臣はその妹広子の方といふのが願る容色があつて、十四代将軍に仕へて、その間に竹之助君といふ一男さへあつて寵を恣にしてゐたので、この勢を利用して忠央朝臣も井伊直弼と相結んでこれを大老に推し、頻る羽振りがよかつた頃、郷土でかねて奨励してゐた物産で自家の独占的事業として財源にしてゐる物でもあつただけに販路を自己が勢力下の江戸に求めるに急であつたために政敵からは炭屋炭屋と嘲られてゐたと聞くが、そのおかげで熊野を主産地とする紀州炭の関東市場に於ける声価が頓に昂つて今日に及んでゐる。

炭ばかりではなく後年紀州材が新建設の首都東京に進出してその名声が宇内に喧伝されたのも侯の遺徳に負ふところが多かつたに相違ない。侯の勢力下で江戸深川の木場に活動してゐた紀州材木商が尠くなかつたからである。

紀州炭の価値は今に衰へないのに、往年の大名炭屋、忠央朝臣は井伊掃部頭の没落と同時に志を失つてさすがの英才の進歩的な政策も行ふによしなく後年は空しく居城丹鶴城に引籠つて鶴峯人黄菊寿園と号して風月に嘯吟して悠悠晩年を丹鶴叢書の刊行等に韜晦したが政敵たる吉田松陰をしてさへ赤一代豪也と言はせた程の英才を世に用ゐる時が来なかつたのは火力無比の備長が水を帯びてしまつたやうな運命の残酷を思はせるものである。

 紀州炭の関東市場に於ける勢力は今日と雖大したもので、堅実を旨として古風を尊重する菓子商、かまぼこ商、せんべい屋、一流の旗亭の板場などは、備長の火力旺盛なものでなければ到底用ゐるに足りないとしてその高値を顧ぬ向も尠くない程である。この備長炭の発明は元禄年間、田辺町の備前屋長右衛門といふ者が新年の餅を製する時竈中の余燼を処置しようと灰でこれを掩ひ埋めて置いた時図らずも良炭を得たのに端を発して業者を刺戟したので炭にこの名があると聞いてゐる。

尤も一説には元禄年間、田辺の人が偶然法を得たのではなく万治年間日方郡の津川村の大津屋某の創製に係るともいふ。創製何人であれ何時であれ、それに偉大な市場価値を生じさせたのは土佐守忠央朝臣の力であつたのは争ふ者もあるまいが、さても一代の英傑が遂に一郷の炭の宣伝家にしか役立たなかつた運命も亦悲しく皮肉なものではないか。

古座川筋、大田川筋から産生するものが品質最も良好として知られてゐる。その素材たる馬目樫などの生長繁茂がこの地方の特有の風土と地味とに最適なためであらう。先年大田川筋から東京に移住してゐる某氏が郷土の樹木を愛するあまり、遥ばる故山から馬目を一株庭前に移植した(葉の細かな枝に曲折の多い一種南画風の趣のある樹だから熊野では庭木として珍重してゐる)のに、東京で数年育つうちにこの樹は本来の面目を一新して普通の樫(?)に似たやうな奇態な樹になつてしまつたといふ話を聞き及んで、風土の勢力の偉なのに驚嘆するにつけて、我国現代の一切の外来文化も早くかうあらせたいものだと語つた事があつた。

 松煙は松の古木の透明に赤く見えるテレピン油を多く含有したものを焚いてその媒煙を得て塗料とし、更に精製して筆硯用の墨とするのである。亦山中の生業の一端をなすもの。予め杉皮で造つた小屋の四壁や天井に蓄めたり或は手軽にわざと特別に粗質の紙でつくつた紙帳のなかで焚きいぶしたり最も簡略には屋内で直接これを行つて障子の桟に蓄積した媒煙を掻き集めるといふが、塗料も他に多く考へられ墨の用途の乏しくなつた今日は以前ほど盛大ではあるまいが往時は熊野諸地方の山間で盛んに行はれたものらしい。現に日高郡の山地や熊野川奥の山間では以前ほどではないまでもまだ行はれてゐる様子である。

製墨の名工も田辺に幕末以来極く近年までゐた筈である。野田笛浦が清国の漂流者と筆談した時の泰得船筆記といふ写本を見た時、本邦では紀州田辺に名墨を産出すると笛浦がいふのに対して清人は何を以て名墨たるを証するかと反問する、笛浦は田辺産の名墨を未だ用ゐた事がなかつたと見えて、世人が皆さう伝へてゐるとだけ答へてゐるのを見た覚えがある。

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底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行

(入力 てつ@み熊野ねっと

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2015.10.29 UP



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