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熊野路

佐藤春夫


【千とせを契る 松の門 お竹お梅が 花の香の金もて来いの 恋風に まきちらしたる坊が灰】

 折角骨を粉にして儲けた金を、がんぜない子供が灰を撤きちらすやうにばら撤くところは松かざりの門に、お竹お梅などが、情は空花の香をお白粉ににほはせて、佐渡で出るのがきき目てきめんの惚れ薬、金もて来いと春風よりも生ぬるい恋風を吹かせる処である。熊野ではこの種の女のことをさんやれと呼んでゐる。熊野で売笑の婦をさんやれと呼ぶ理由を、先年沖野岩三郎氏がアメリカで研究して来て発表したところによると、例の串本節の元唄といふのが

障子開くれば島は一目何故(なぜ)に佐吉は山のかげ

といふ島の「や」は例の主格を表はす方言的テニヲハ、佐吉といふのは串本町の対岸大島にはじめて妓楼を開設して自分の名をそのまま楼の名にした伊勢人(?)とかで、蕩児が串本町から障子をあけて大島を望めば大島は一望指呼の間にありながら、外海に面して島の外側なる佐吉楼(彼女の住する)は山のかげで見るべくもないといふ意味の歌詞につづいて「やれやれお茶やれさんやれ」といふ自嘲と歎息とを意味するらしいはやし言葉がつづいてゐたといふ。

沖野氏が郷土の俗謡の根原をアメリカ三界で知つたといふのはアメリカ出稼の串本人にめぐり合つたからであるといふが何しろコロンブス以来の大発見であつた。——白拍子を舞ふから白拍子、「さんやれ」と囃す唄を歌ふ女だから「さんやれ」と呼ばれたわけらしい。

 この所謂さんやれ連中は山で惚れ薬をしこたまつかみどりして来た木挽の若い衆が、山祭の時より一層調子づいて

何の因果で木挽を習うた花のさかりを山でする

などと歌ふのを聞きおぼえて、いつもの「さんやれ」を早速木木挽唄にかへて

色の白いを見込んでほれた木挽さんとは知らなんだ

とか

木挽きァひけ〳〵杣人ははつれ、わしのとのごはさきやまぢや

などときげんを取つてゐる。色の白いをといふのは漁夫にくらべては潮風にふかれない山稼ぎの方が或は本当に色が白いのであらうが、見込んで惚れたのは腰纏の妙薬に目をつけたのに相違ない。そこで佐渡の惚れ薬もいよいよ極量まで投薬されたと見た頃には、

いやぢやきらひぢや木挽の嫁は仲のよい木をひきわける

と木挽唄の文句も代つて来てしまふ。折から太地で背美の子持でも獲れたとなつたら、お竹お梅ら今度は羽指しの太夫どの相手に何と歌ふやら聞きたいものである。序に新宮の方言では情人のことをケンシ、ケンシュなどと言つてゐる。思ふに懸思の訛であらうか。香気が高くて種のない温州みかんを李夫人と名づけ、江戸本所にあつた別館に波瀲館と名づけた新宮藩十世の主水野土佐守忠央朝臣は一面なかなかの美丈夫で粋者であつたと聞くから、ケンシなどもこの殿様の漢土趣味の用語が民間に訛伝したのではなからうかと考へる事どもである。

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底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行

(入力 てつ@み熊野ねっと

長うた狂歌「木挽長歌」:熊野の歌

2015.12.24 UP



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