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相聞覊旅

佐藤春夫

 

 序歌

十ばかりはかなき歌をよみすてて忘るるほどの恋にあらねど

ただひとりゆくさきざきのともし灯に淚をながす恋の順禮

  とほきたびちにたつものは
  いとしきものとともにゆけ
  よろこびさわぐひとびとの
  などよそびとをかへりみるべき(アイへンドルフ)

あはれなる恋の終りてあはれなる一人は旅にのぼる夜かな

恋人とわかれてひとりゆく旅のふるさとながら外国(とつくに)と見る

ふるさとの海よりもなほなつかしき人をわすれにゆくやいづこに

 人妻ありて、わがこの旅を哀れがりその夫なる人とともに見おくり給ひければ
ひたすらにわれを隣れむ人妻をなにとやよびてなつかしむべき

 船路
なげきつつ人を思へばいつしかに海は月夜となりにけるかな

 遠く君をおもふ
思ふとき強きわれさへ泣くものを思ふはやめよやさしき少女

 ふるさとに歸りぬわけて夕暮はかなしかり
夕されば水のほとりの野茨の白き花にもさしぐまれつゝ

ふるさとの野辺の五月に咲く花の白きよりなほなつかしきかな

たそがれの暗きこころをはこびゆく海にかよへる一すじの路

とりめぐる悲しきものを逃れんと丘にのぼれば見ゆる夕月

十日ほど老いたる母につかふれば悲しきことをことごとく知る

 君があたらしき物語の女主人公はいかにとふるさとなる女の問ひけるに
この君を少女マリアになぞらへて友の笑ひを買ふもかなしさ

 寺に行かまくなど思ふ日あり
御佛をあふぐならねど佛院の暗き廊下をなつかしむゆゑ

若き日の多情多恨の罪のためわびしき山に老いんわが身か

若人らつどひ遊べる東京の初夏晩春をわすれんとする

 

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第2巻、臨川書店

1913年(大正2年)8月1日発行の『三田文学』(第四巻第八号)に掲載

(入力 てつ@み熊野ねっと

2015.9.3 UP



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