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私日思郷

佐藤春夫

 

 雑歌

   一 私日思郷

浜木綿(はまゆふ)のま白なる花おのがじし枯れにしあとに秋となるらん

秋くれば王子が浜にゆく汽車のけむりの黑さかなしからまし

三輪崎(みわざき 一)ゆ佐野のあたりの晩秋(おそあき)を熊笹わけてわしる兎(うさ)はも

秋ふかみ圓山(まるやま)の丘しばくさの根ぞあらはならんいたいたしかる

二十ほど柑子をとれば海ちかき松にあさ日の茜すらんも

なげかるるわが身をも措きて飽かなくに城山ゆ見ん大雲小雲(おほくもこぐも 二)

江尻(えじり)なる木場の若衆(わかいし 三)のぬれ足袋のいとつめたげになりにけらしな

小浜(こばま)より登阪(とさか 五)をかけて船頭衆(せんどし 四)のくるわ通ひのさむけくぞなる

山かげの家にしあれば父の家屋根におち葉のしげくかかるも

風すさび朝ともなればさ庭べのくぼみに椎実のたまりたらずや

秋ふかみN氏(六)の家はすとおぶに椎の枯枝(かれだ)をくべにけらずや

はろばろに吾(あ)がふるさとをおもふ日は赤き靖鈴(あきつ)とならましものを

   自注
 (一)古の三輪が崎なり。わが故郷新宮の南一里に在り。今は土俗訛りてかく呼ぶ。歌にあらはれたるは数あり、上田秋成は雨月物語の巻之四「蛇性の姪」の舞台をここにとりぬ。「くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」佐野は今とても松原みちに家疎らなり。

 (二)大雲、小雲、ともに山脈の名なり。

 (三)土俗はかく訛る。

 (四)同上

 (五)船つき場の小浜より街に出づるには小さき山を一つ越ゆべし、ここの阪みちを登阪と呼ぶ。登阪を越せば廓へはやや遠き路一すぢなり。わが家は登阪の下に在り。

 (六)石井柏亭の「N氏とその一家」はわが同郷の一知人の家庭なり。

 

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第2巻、臨川書店

1913年(大正2年)8月1日発行の『三田文学』(第四巻第八号)に掲載

(入力 てつ@み熊野ねっと

三輪の崎・狭野:熊野の歌

蛇性の姪:熊野の説話

2015.9.3 UP



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