護法(名取ノ老女)
『謡曲三百五十番』番外五十一番No.47
※「護法」は「名取ノ老女」とも呼ばれる。熊野の山伏が陸奥行脚の暇乞いのため本宮に通夜したところ、名取の里(宮城県名取市)に住む老巫女に梛の葉を届けよと霊夢を蒙った。霊夢の通り名取にはその老巫女がいた。老巫女は若い頃には熊野に年詣でしていたが、年老いてからは詣でることができず、名取に熊野三山を勧請して祈りを捧げていた。山伏は老巫女に梛の葉を渡した。その葉には虫食いの文字で熊野権現の神詠が書かれていた。
名取熊野三社(熊野本宮社、熊野新宮社、熊野那智神社)は東北の太平平洋沿いにおける熊野信仰の拠点。
<底本:日本名著全集『謠曲三百五十番集』>
ワキ次第「山また山の行末や/\雲路のしるべなるらん。
詞「是は本山三熊野の客僧にて候。我此度松島平泉への志あるにより。御暇乞の為に本宮証誠殿に通夜申して候へば。あらたに霊夢を蒙りて候ふ程に。只今陸奥名取の里へと急ぎ候。
道行「雲水の行方も遠き東路に。/\。今日思ひ立つ旅衣。袖の篠懸露結ぶ草の枕の夜な/\に。仮寢の夢を陸奥の。名取の里に着きにけり/\。
シテ、ツレ二人一声「何くにも。崇めば神も宿木の。御影を頼む心かな。
シテサシ「これは陸奥に名取の老女とて。年久しき巫にて候。我幼かりし時よりも。他生の縁もや積りけん。
二人「神に頼を掛巻くも。忝くも程遠き。かの三熊野の明神に仕ふる心浅からず。身はさくさめの年詣。遠きも近き頼かな。
シテ「されども次第に年老いて。遠き歩も叶はねば。かの三熊野を勧請申し。こゝをさながら紀の国の。
二人下歌「牟婁の郡や音無の。かはらぬ誓ぞと頼む心ぞ誠なる。
上歌「こゝは名を得て陸奥の。/\。名取の川の川上を。音無川と名づけつゝ。梛の葉守の神こゝに証誠殿と崇めつつ。年詣日詣に。歩を運ぶ乙女子が。年も旧りぬる宮柱立居隙なき宮仕かな立居隙なき宮仕かな。
ワキ詞「如何に是なる人に尋ぬべき事の候。
ツレ「何事にて候ぞ。
ワキ「承り及びたる名取の老女と申し候ふは。この御事にて御座候ふか。
ツレ「さん候これこそ名取の老女にて御座候へ何の為に御尋ね申し候ふぞ。
ワキ「是は三熊野より出でたる客僧にて候ふが。老女の御目に懸りて申し度き事の候。
ツレ「暫く御待ち候へ其由を申さうずるにて候。如何に申し候。是は三熊野より御出で候ふ山伏の御座候ふが。御目に懸り度き由仰せられ候。
シテ「あら思ひ寄らずや此方へと申し候へ。
ツレ「畏つて候。客僧此方へ御出で候へ。
シテ「三熊野よりの客僧は何くに御入り候ふぞ。
ワキ「是にて候。何とやらん粗忽なるやうに思し召し候はんずれども。夢想のやうを申さん為にこれまで参りて候。さても我此度松島平泉への志あるにより。御暇乞の為に本宮証誠殿に通夜申して候へば。あらたに御霊夢を蒙りて候。汝奥へ下らば言傅すべし。陸奥名取の里に。名取の老女とて年久しき巫あり。かの者若くさかんなりし時は年詣せしかども。今は年老い行歩も叶はねば参る事もなし。ゆかしくこそ思へ。これなる物を慥に届けよとあらたに承り。夢覚めて枕を見れば。梛の葉に虫喰の御歌あり。有難く思ひこれまで遥々持ちて参りて候。これ/\御覧候へ。
シテ「有難しとも中々に。えぞ岩代の結松。露の命のながらへて。かゝる奇特を拝む事の有難さよ。老眼にて虫喰の文字さだかならず。それにて高らかに遊ばされ候へ。
ワキ「さらば読みて聞かせ申し候ふべし。何々虫喰の御歌は。道遠し年もやう/\老いにけり。思ひおこせよ我も忘れじ。
シテ「何なう道遠し。年もやうやう老いにけり。思ひおこせよ我も忘れじ。
ワキ「げに/\御感涙尤もにて候さりながら。二世の願望現れて羨ましうこそ候へ。
シテ「仰の如くかほどまで。受けられ申す神慮なれば。崇めてもなほ有難き。二世の願や三つの御山を。
ワキ「移して祝ふ神なれば。
シテ「こゝも熊野の岩田川。
ワキ「深き心の奥までも。
シテ「受けられ申す神慮とて。
ワキ「思ひおこせよ。
シテ「我も忘れじとは。
地「有難や/\。げにや末世と言ひながら。神の誓は疑も梛の葉に。見る神歌は有難や。
シテ「如何に客僧へ申し候。此処に三熊野の勧請申して候御参り候へかし。
ワキ「やがて御供申し候ふべし。
シテ「此方へ御入り候へ。御覧候へ此御山の有様。何となく本宮に似参らせ候ふ程に。本宮証誠殿と崇め申し候。又あれに野原の見えて候ふをば。飛鳥の里新宮と申し候。又此方に三重に滝の落ち候ふをば。名にし負ふ飛竜権現のおはします。那智の御山とこそ崇め申し候へ。
地クリ「それ勧請の神所国家に於て其数ありといへども。取り分き当社の御来歴。りよしんを以て専とせり。
シテサシ「もとは摩伽陀国のあるじとして。
地「御代を治め国家を守り。大悲の海深うして。万民無縁の御影を受けて。日月の波静かなり。
シテ「然りとは申せども。
地「猶も和光の御結縁。普き雨の足引の。大和島根に移りまして。この秋津国となし給ふ。
クセ「処は紀の国や。牟婁の郡に宮居して。行人征馬の歩を運ぶ志。直なる道となりしより。四海波静かにて八天塵をさまれり。中にも本宮や。証誠殿と申すは。本地弥陀にてましませば。十方界に示現して光普き御誓。頼むべし頼むべしや。程も遥けき陸奥の。東の国の奥よりも。南の果に歩して。終には西方の。台になどか座せざらん。
シテ「大悲擁護の霞は。
地「熊野山の嶺に棚引き。霊験無双の神明は音無川の川風の。声は万歳が峰の松の。千とせの坂既に。六十に至る陸奥の。名取の老女かくばかり。受けられ申す神心。げに信あれば徳ありや。有難し有難き告ぞめでたかりける。
ワキ詞「いかに老女へ申し候。か程めでたき神慮にて御座候ふに。臨時の幣帛を捧げて。神慮をすゞしめ御申し候へ。
シテ「心得申し候。いで/\臨時の幣帛を捧げ。神慮をすゞしめ申さんと。
ワキ「天の羽袖や白木綿花。
シテ「神前に捧げもろともに。謹上再拝。仰ぎ願はくは棹鹿の八つの御耳を振り立て。利生の翅を並べ。空海の空に翔りては。一天泰平国土安全諸人快楽。福寿円満の恵を普く施し給へや。南無三所権現護法善神。
早笛「。
シテ「不思議やな老女が捧ぐる幣帛の上に。化したる人の虚空に翔り。老女が頭を撫で給ふは。如何なる人にてましますぞ。
護法「事も愚や権現の御使護法善神よ。
シテ「何権現の御使護法善神とや。
護法「中々の事。
シテ「有難や。まのあたりなる御相好。
地「神は宜禰が習を受け。
護法「人は神の徳を知るべとして。
地「参りの道には。
護法「むかひ護法の先達となり。
地「さて又下向の道に帰れば。
護法「国々までも送り護法の。
地「災難を去りつゝ悪魔を払ふ送迎の。護法善神なり。それ我が国は小国なりと申せども。/\。大神光をさし下ろし給ふ。その矛のしただりに。大日の文字あらはれ給ひしより。大日の本国と号して胎金両部の密教たり。
護法「然るにもとよりも。
地「然るにもとよりも。日本第一大霊験熊野三所。権現と現れて。衆生済度の方便を貯へて。発心の門を出で。岩田川の波を分けて。煩悩の垢をすゝげば水のまに/\道をつけて。危き崖路の苔を走れば下にも行くや。足早舟の。波の打擢水馴棹下ればさし上れば引く。綱手も三葉柏にかく神託の道は遠し。年は旧りぬる名取の老女が。子孫に至るまで。二世の願望三世の所望。皆悉く願成就の。神託あらたに告げ知らせて。/\。護法は上らせ給ひけり。
(** JALLC TANOMOSHI project No.1 **
** 謡曲三百五十番集入力 **より
テキストのダウンロードはこちらのページから)
2019.7.19 UP