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本朝変態葬礼史 (3/9)

中山太郎

屈葬と支解分葬の習俗

 古代には屍体を埋めるときは、概して屈葬と称して首から脚へかけ縄を以て強く縛るのが習俗となっていた。そしてこの葬法は近年まで残っていた。石川県羽咋はくい郡富永村では、死者を納棺する際に藁縄、或いは白布を以て屍体を緊縛した。これを極楽縄と称し老人は自分でこしらえて置いたとある。老先の短い年寄達が、やがては自分が屍体となって縛られて往く縄を、用意する心持を察しると何とも言われぬ淋しさを感じるのである。沖縄でも屍体を蒲葵くばの縄で縛り埋めたが、硬直せる屍体の膝を折ることなどもあって、実に惨たらしいものであったと聴いている。

 それでは何が故にこうした惨酷なる処置を屍体に加えたかと云うに、これにはまた段々と説明すべき理由が在って存したのである。古代人が死霊を恐れたことは、現代人が想像するよりは幾十倍の強烈さであった。眼に見える猛獣や毒蛇の害なれば、何とかして防ぐことも出来たであろうが、眼にも見えず手にも取れぬ死霊――殊にそれが変死を遂げた者の凶霊にあっては、迷信が深かっただけに、さらに思索が進まなかっただけに、これが依憑なり襲来なりを防ぐことが出来なかったのである。加うるにこの時代にあっては悪疫の流行も思わぬ怪我も、この死霊や凶霊の為す仕業と考えていたのであるから、その死霊の発散して疎び荒ぶることを恐れて、かくは屍体を緊縛するようになったのである。我国で古く 鎮花祭はなしずめまつりと云うのを、桜の花の散る頃に行うたのは、あたかもこの時分に死霊や疫霊が発散するので、それを防ぐための祈祷に外ならぬのである。

 こうした民族心理は、変死を遂げた者、または叛臣や逆徒等の兇暴性を帯びた者の屍体を埋葬するに、さらに一段の惨酷を加えたことは、当然の帰結であった。そしてその方法は変死者なれば屍体を さかさにして、橋の袂か四ツ辻に埋めたものである。これはこうした場所ならばたえず人馬の往来があるので、死霊が発散せぬよう踏み固めると信じたからである。沖縄県では近年まで変死者をこうして取扱ったもので、内地の各地にさかさに歩く幽霊が出ると云う話のあるのも、また辻祭や辻占と称して四ツ辻が俗信と深い関係を有しているのはこれが為めである。宇治の橋姫の怪談などもこの習俗の伝説化されたものである。それから兇暴者の屍体は、これを幾つかに裁断して各所に分葬することとなっていた。崇峻紀に物部守屋の資人けらいである捕鳥部万ととりべのよろずが官軍に抗し、自ら頸を刺して敗死したが、朝廷ではその屍体を八段に斬り、八ヶ国に散梟さんきょうしたと載せている。平将門もまたこれと同じように支解分葬されたことは、彼の首を祀り、胴を祀り、手や脚を祀ったと云う神社が、各地に在る所からも推知される。さらに京都府北桑田郡神吉村の八幡社は、康平の昔に源義家が安倍貞任を誅し、その屍骸を埋めるに神占を行い、四ツに截って四ヶ所に葬ったが、それでもなお死霊が祟りをするので、鎮霊のため宇佐から八幡社を勧請したと伝えられている。この屍体を截断することが即ちハフルであつて、しかもこの役目は神主が勤めたので、古く神主をはふりと呼んだのである。そして屈葬も逆葬も支解分葬もともに変態であって、それが死霊を恐れた古代民族の俗信に由来することは言うまでもない。

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青空文庫より転載させていただきました。

(てつ@み熊野ねっと

2018.4.2 UP



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